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3月1日 入居の日

 朝七時ちょっと前、インター出口の信号待ちで、ちょうど正面に虹を発見した。まずいよなあと思いつつ、社用車の車内用ドライブレコーダーの向きを確認しつつ、スマートフォンを取り出してささっと虹を撮影した。昨日のサボりの時に見たような、窓ガラスにたくさんついた水滴と、その向こうに虹、その下にははっきりめの副虹。車のフロントガラスに散った水滴のおかげで、虹と副虹はみずみずしくておいしい何かに見えた。
 私の立場から、こういうくだけた写真を送るには、團さんと篠宮だったら歳の近い篠宮がふさわしいはず。しかし、一ヶ月以上一緒に働いているにも関わらず、篠宮のメールアドレスを知らなかったので、團さんに送ってみた。きっと二人とも、とっくに事務所について、パソコンを開いているだろうから、どちらかが気づけばもう片方にも伝わる。虹を写真におさめて浮かれていること、團さんに対してまだ少し緊張していることが少しだけ伝わるように、虹が出てました、とだけ短く添えて。

 事務所に着くと、めずらしく川本次長が来ており、他の人たちはみな掃除をしていた。團さんと篠宮は掃除機を片手に、椅子や机をひいたり戻したりしている。来てからずっと掃除をしているなら、二人とも虹の写真は見ていないだろう。それが見つけられた瞬間を思い少しわくわくしながら、咬み殺した微笑みが團さんと篠宮にばれないように、彼らの遠くを掃除することにした。ホワイトボードに染み込んだ水性ペンの汚れを拭っていると、背中から差し込んだ光がホワイトボードに反射して、外がかなり明るいことに気づく。團さんと篠宮のもとに連れてこられた大寒の日、控えめだった日差しは、真っ直ぐで眩しい春の日差しになっていた。心なしか、日差しに色がついて見える。
 色付きの日差しの中で、ホワイトボードを真っ白にしていると、後ろから、おい、と声をかけられた。色付きの日差しは、普通の眩しい春の朝日に戻る。川本次長が、お前、今日は入居だろうから十五時くらいにあがっていいぞ、と少しやれやれしながら言った。
「ありがとうございます、そうしますね!」
春の朝日にふさわしいハキハキとした声で答えて席に戻ると、向かいでパソコンをひらいた團さんが小さく、わ、と言った。きっと、虹に気が付いたのだろう。画面に釘付けの團さんに向かって、気づかれないように小さく口角をあげた。

 川本次長がまた、おい、と言い、團さんと篠宮、私は一斉にそちらを向く。川本次長は車の鍵をくるくると回しながら、だん、おいだん、行くぞ、すまんなあ急に、と遠くを見て続けた。團さんがバタバタと荷物をまとめて、後ろを追いかける。
 川本次長はいつもため息みたいな喋り方をし、最後にすまんなあ、とか、ありがとなあ、と言う。五十男にしては少し長くてつやつやの髪の毛と顎髭、ため息まじりの話し方、自覚があってやっているのかもしれないが胡散臭いほどの色気があった。対照的に、質実剛健で優しい團さん。川本次長より頭ひとつ分背が高いが、人に与える印象の強さで言ったら川本次長のほうが圧倒的だ。

「今日、二人は九州に戻ってなんかやることあるらしいっすよ、俺らだけ残って作業しましょう」
状況を飲み込めていない私に、篠宮がこそっと教えてくれた。自分のパソコンに目を落とし、昨日やりかけだったファイルと、天気予報のサイトとグーグルマップを開く。
 最後のふたつは、仕事にはなんら関係のないもので、自分的にはみること自体がサボっている部類に入るが、周囲からはサボりがばれにくい。三十分くらい真面目にエクセルをいじっていたら、團さんから「虹きれいやね、朝から、ついてるね」とメールがはいった。キラキラ模様の絵文字もついている。そうそう、それでいいんだよ、ありがとう團さん。

 今日はもう疲れた、といつも感じる時刻の一時間前、つまり十四時に、協力業者のひとりである土村が外回りから戻ってきた。外に出て行ったことには気が付かなかったが、そういえば土村のいない事務所はずいぶん静かだった気もする。同じく協力業者のひとり、中西課長と土村は相性が悪く、二人でいると中西による長い説教か、たいへんしょうもない喧嘩が始まる。毎日見ていると、小競り合いが起きなかった日は逆に不安になるくらいだ。
 土村はドーナツの箱を抱えていた。事務所のメンバーに二つずつ買ってきたらしく、中西課長が、やあやあハンサムな土村君、と言い直しているから笑ってしまう。
 そういえば久しく、ドーナツなんて食べていない気がする。女の子なんだから先に選びなさい、と中西課長がすすめてくれた。女である私に気を遣っているのではなく、先に選ぶのが恥ずかしいからすすめてくれたのだろう。恥も外聞もなく可愛くて、どっしりと幸せなやつ、クリームがたくさんつまって粉糖をかけたやつと、ホワイトチョココーティングにカラースプレーをまぶしたやつを選ぶ。カラースプレーのやつなんかは、今朝、インター出口で見えた水滴をまとう虹を思い出させる。みずみずしくて美味しい何か、は意外にもバタくさい揚げ菓子だったのだかもしれない。
 砂糖が手や口角につくくらいは気にしなくていいや、と思い切りかぶりつくと、篠宮が小さく笑いながら右から視線を送った。篠宮は鼻の頭をとんとん、と指さすジェスチャーをして見せる。私はどうやら、手や口角に砂糖どころか、鼻の頭にクリームをつけいていたらしい。仕事の流れが途絶えてしまったなと思った頃に、中西課長が、もう帰ったら?と言いにきた。まるで小学校の先生か、娘を思う父親かのような言い方で。
 晴れた春の日の十五時は、やはり朝日と同じか少し多いくらいの光量があった。余談だが、十一時か十二時のあいだに南中すると仮定すれば、太陽の高度も七時よりは十五時の方が少し高いくらいで大差はないはずだ。一ヶ月あまり、就寝時刻くらいまでの残業を続けていたので、外が明るいうちに仕事を切り上げるのが少し心苦しかった。仮にいま團さんがいたら、なんやかんや理由をつけて残っていたかもしれないが、その観点からいったら今日は身軽だ。

「土村さん、今日はおごちそうさまです、お疲れ様です」
土村に向けてかよく晴れた空に向けてか、そう言い残して事務所を飛び出し、車に乗った。まっすぐ新居に向かっても良いが、あのコンビニに向かおう。ドーナツと紙カップに入ったブラックコーヒーで、バタくさくておしゃれな休憩として、場面が完成するのだから。

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