雷命の造娘:~序幕~アワレナムスメ
──闇暦二八年、ドイツ・ダルムシュタット。
ドイツ中央に位置するこの街の郊外には、蒼い霊気に祝福された城影が聳えている。南へ五キロ程離れた丘陵に在るそれは、忌むべき奇怪城として人々を畏怖させ続けていた。
その名を〝フランケンシュタイン城〟と云う。
名門貴族〝フォン・フランケンシュタイン〟によって築かれた名城を一転して呪われた城へと貶めたのは、旧暦中世に居城した錬金科学者〝ヨハン・コンラッド・ディッペル〟の影であろう。彼は解剖学へ先駆的に傾倒しており、夜毎に死体泥棒を犯しては怪しげな実験を繰り返した。その奇異性が居城の心象へと直結し、今日に至る。
一説では錬金術の秘奥技たる〈人造生命体〉を生み出す為に、科学的アプローチを模索していたという噂もある。
そして、その試みは成功した……とも。
いずれにしても真偽を知る者など、もはや存在しない。
雷雨が激しく地表を叩きつけ、煩わしい泥濘を生む。
城の窓は過剰に洗われ、覗けるはずの外界をぼやけさせた。
唯一はっきりと認識できるのは、慢性的な暗黒の空──そして、黄色い単眼で下界を見据える漆黒の月。
理不尽で異様な現世魔界だ。
それでも〈娘〉は、眺め続ける。
飽きる事無く、ただ虚ろな眼差しで……。
外界には〝変化〟が在る。
自然が生み、生命が育み、感情が動かす〝変化〟が。
それは〝城〟の中には無いものだ。
知らず知らずの内に焦がれた。
その世界に受け入れられてみたいと思うようになった。
未知なる外界には〝何〟があるのか──まったく見当も付かない。
好奇心が疼く。
否、好奇心ではない。
これは〝寂しさ〟だ。
自分の存在を閉鎖された城に於いて、長らく苛んできた虚無感だ。
鳥や樹々や草花は、きっと優しく自分を迎え入れてくれるだろう──淡い期待だけが募る。
自分を愛してくれるのならば、この容赦ない雷雨が相手でも構わない。
自分が存在しない世界は、もう嫌だった。
雷鳴が轟く!
冷酷な稲光が、彼女の顔を窓へと曝け映した!
手入れなく荒れた黒い長髪に、何処か儚げな眼差し。通った鼻筋に、精気無き青い唇。
そして、顔半分を分け隔てる縫合の痕跡──右頭頂から袈裟掛けに刻まれた針痕。右目周辺は頬に掛けて醜く爛れ、眼球も剥き出しの状態に近かった。その部位に皮膚は無い。筋肉繊維が生々しくも痛々しく露出していた。生気薄くも美貌を刻む左顔面との対比が、ますます無情に醜さを演出する。
「ヴァァァアアーーーーーーッ!」
声にならない悲鳴を吠えた!
おぞましく醜怪な〈怪物〉を拒絶し、その顔を覆って蹲まる。二メートル弱の巨体は、赤子のように怯え屈んだ。
この顔は何だ?
この身体は何だ?
四肢も……胴体も……総てを縫合で繋ぎ纏められたちぐはぐさは!
嗚呼、この世の物とは思えぬグロテスクさ!
身の毛もよだつ奇怪な外見!
二度と見るのも御免であった!
それが己だと自認する度に、彼女の心は八つ裂き刑に弄ばれる。
こんな化け物が、誰かに受け入れて貰えるはずがない!
樹々のざわめきは沈黙し、草花は枯れ果て、鳥は遠く飛び去るだろう!
憐れな〈娘〉は苦しみ嘆いた。
この慟哭が幾度目か数えるのも疲れ果てる程に……。
「〈娘〉! どうした!」
厚い樫の扉を乱暴に開け破り、城の主が駆け入って来た!
どうやら階下にて、獣の悲鳴を聞き付けたらしい。
三〇代前半といった男性だ。
真っ直ぐな意志力を宿したコバルトブルーの慧眼に、くっきりと通った高い鼻筋──シャープに整った顔立ちは気品と精悍さを共存させ、若獅子の貫禄さえ感受させる。
紺色のスーツ姿は各所にきらびやかな貴金属の装飾が眩く、彼が時代錯誤な爵位にある事を主張していた。
彼は蹲る〈娘〉に寄り添い、穏やかな抑揚で宥める。
「大丈夫、落ち着くんだ〈娘〉……」
「ぅ……ぁ……〝ざ……じぇるま〟……?」
残酷さの拒絶に怯えていた〈娘〉は、ようやく落ち着きを取り戻した。
保護者の名を呼ぶ発声は、耳障りに歪んでいる。
「そうだ、私は〝サン・ジェルマン〟だ。解るな?」
「ぁ……ぁ……」
何度も大きく頷き続けた。
サン・ジェルマン卿は〈娘〉を置いて立ち上がると、事態把握に室内を展望する。
何があったのかは、大方の察っしはつくが……。
(……やはりな)
窓のカーテンが開いていた。
外界を切望し、己に失望する──幾度となく繰り返された哀れな葛藤だ。
しかし……。
(間隔が早くなっている)
二週間が十日になり、十日が一週間──そして、現在では二日間隔だ。
(それだけ外界への関心が強まっているという事か……一度、納得させた方がいいかもしれないな)
深刻な面持ちのサン・ジェルマン卿を仰ぎ見つめ、〈娘〉は闇が彩る窓を一生懸命に指し示した。
そこには〈おぞましい怪物〉がいる……と。
「ぁ……ぁ……」
伝えるだけの言葉は紡げない。
その様は健気ながらも薄気味悪く映った。
さりとも、サン・ジェルマン卿は、そうは思わない。
この〈娘〉は、無二の存在であった。
この〈娘〉は、愛すべき対象であった。
まるで我が子を慈しむかのような笑みを飾り、サン・ジェルマン卿は優しく諭す。
「〈娘〉、まずは座ろうか」
樫席へと促す。
「ぁ……ぅ……ぁ」
〈娘〉は、まだ状況を伝えようと悪戦苦闘を続けている。卿の言葉が耳に入っていない様子だった。
「座りなさい! 座るんだ! 〈娘〉!」
多少、語気を強めた。
だがしかし、彼としては叱ったつもりはない。
これは躾にも似た強要である。
保護者の意向を感じとり、ようやく〈娘〉は従順に腰掛ける。巨躯に見合うだけの緩慢な動作であった。
サン・ジェルマン卿は〈娘〉の両肩を押さえ、目線を合わせた正視に懇々と語り聞かせる。
「いいかい〈娘〉? 外の世界は、とても怖い所なんだよ……君にとってはね」
「ぅ……ぁ……ごば……い?」
「そうだ。とても怖く、恐ろしく、残酷で、苦しい世界なのさ」
「……ざ……ごぐ……」
言葉の意味は理解できている。
ただ、自身が紡げないだけだ。
「君は、この城から出てはいけない……出るべきではないんだ。何故なら、残酷な運命が君を殺してしまうから」
「ごろ……ず……?」
生と死──。
慈愛と殺意──。
そして、創造と破壊────。
知っている。
いずれも本から学習した。
されども、それが如何なるものかは、漠然としか分からない。
まだ実感を伴わない概念を、頭の中で噛み砕く。
奇怪な美貌が刻む沈思。
ややあって〈娘〉が理解したと感じたか──サン・ジェルマン卿は力を抜いた微笑みを飾り、舞台役者の如く両腕を広げて室内を見渡した。
「だが、この城に居れば何の心配もない。君は護られる。此処は君の為の世界なのだからね」
高らかなる誇示。
「ぅ……ぁ……」
その背後にて〈娘〉が嫌々と首を振る姿は、不幸にも彼の視界には入らなかった。
納得できない想いを訴えようとするも、それは叶わない。
サン・ジェルマン卿の言葉は理解できても、サン・ジェルマン卿に心情を伝える事はできない。
もどかしく口惜しい主従関係であった。
(繋ぎ止めておくのも限界かもしれないな)
うねる石造りの階段を下りながら、サン・ジェルマンは懸念を噛んだ。
(彼の知性──いや、或いは心か──それは日に日に成長している。著しい程に……)
壁掛けの燭台が灯火を息吹かせ、白亜の石壁を趣のある橙色へと染めあげる。それは温かくも冷たい心象であり、呼応して小躍りするサン・ジェルマン卿の陰影は嘲る幽鬼にも映った。はたして、それは彼の心底に眠る罪悪感の具現化なのだろうか。
黙想に階段を抜けると、暖炉が盛る応接間へと向かう。
現状は接客の続きを演じなければならない。
サン・ジェルマン卿が去ると、部屋は再び閑寂とした霊気に支配された。
ポツンと置かれた〈娘〉は、虚に室内を見渡す。
仄暗いランタンの灯火が、不規則な呼吸に物品の影を〈妖精〉の如く暴れさせた。されど、それらは何かを起こすわけでもなく、音ひとつ立てはしないが……。
灯りの勢いは小さく、室内の蒼さを呑み返すには貧弱であった。石壁の冷気と霊気は滞る。部屋の片隅に飾られた蜘蛛の巣が、自分以外の〈生命〉を感受させる唯一の装飾だ。
樫製の長卓が幾つも並び置かれ、その上には何やら書かれたメモやノートが乱雑に放置されている。
文字を読めるまでには学習していたが、まだ単純な文章までだ。記載されている文面は複雑過ぎる。読み解く事などできない。
だが、描かれている図が人間の部位である事は大凡見当着いた。それらを指して、具に注意項目が書き殴られている。
試験管や薬瓶といった実験器具が卓上に並ぶ。それらが何なのか〈娘〉には分からなかったが、久しく使われていない事は明らかであった。とはいえ、使い掛けの片鱗は窺える。道具の持ち主は、失踪直前まで実験を繰り返していたのであろう──何の実験かは皆目検討も着かないが。
やがて〈娘〉は立ち上がり、のそりのそりと部屋の一角へと向かった。
壁際に据えられたくすんだ大きな木板。馬車の荷台から車輪を外したかのような粗雑な作りであった。要所には厚みある黒金具が強度の補強としてあり、見た目の襤褸さに反して頑丈な代物だ。とりわけ拘束用の鉄枷は、如何物的な印象を強調する。
それを中核として大掛かりで怪しげな機械が壁と囲い、木板に取り付けられた機械部品類と配線で繋がっていた。避雷針から吸収した電気を変換し、木台上の対象へと供給する超高圧変電装置である。
それが〈娘〉の寝床……そして、この世で最初に目覚めた場所であった。
寝台に横になると、頸動脈付近の丸頭ボルトを少しだけ引き出し、超高圧変電装置の配線と繋いだ。
今宵は雷雨が激しい。
数ヶ月分の糧を蓄電するには事欠かさない。
「御待たせしました、ミスター・ゲルハルト」
何事も無かったかのように抑揚を偽装するサン・ジェルマン卿。
暖炉が熱を奏でる応接間はビロードの赤絨毯が敷かれ、格調高い意匠を施した調度品をアクセントと彩っていた。歓待の華と憩わせるのは、人間臭い生活臭と無駄な絢爛さ。
豪奢なロングソファーにて待っていた来客は、睨め付けているかのような上目遣いで若き城主の挙動を観察した。そもそも陰気な容姿のせいか、物言わずとも責め立てているかのような気難しい印象を抱かせる。
年齢は四〇代後半か。
薄い髪量をオールバックに流し、卵形の細面は険しさに頬が痩けていた。そこに落ち窪んだ大きな目は疎むかのように瞼が垂れ、相手の本質を値踏みしようとする陰湿な気質を感受させる。幅薄くも高い鼻筋が、そうした神経質な印象を助長していた。
カーキ色の軍服姿が物語る通り、彼はダルムシュタットを防衛する〈完璧なる軍隊〉の将校である。
名を〝ウォルフガング・ゲルハルト〟という。
彼の背後には、規律然と立つ二名の護衛兵。
全身を固める特殊装備は、宛ら『SF作品』に登場する〈近未来戦士〉を彷彿させた。魔界と化した闇暦世界には不釣り合いな異質感だ。
頭部には完全密封型ヘルメット。その為、表情や素顔を窺う事は出来ない。
口部から生え伸びる呼吸用ホースは、胸部の生体維持装置へと繋がっていた。毒ガスは疎か、世界に蔓延する魔気さえも遮蔽する脅威の科学技術である。
「先程の雄叫びは?」
二人分のブランデーを用意するサン・ジェルマン卿の背中へ、暗い声音が問い掛ける。
「獣ですよ」
「獣?」
「ええ、己が衝動を持て余す飢えた獣──それだけです」
「フン……冥府魔犬でも飼っているのかね?」
自分と客人のグラスを卓上へと置き、サン・ジェルマン卿は談義の席へと着いた。
腹を探り会う接待に平然を繕い、彼は嘯く。
「この闇暦では、何時如何なる状況が襲ってくるか判らない……護身用ですよ」
「我々〈完璧なる軍隊〉が信用には当たらない……と?」
ウォルフガングは背後の科学武装兵士を一瞥し、暗黙の誇示を臭わせた。
「まさか?」燻らすグラスの変化を眺め、サン・ジェルマン卿は武勇を讃える。「先代領主〈冥女帝〉を下し、その領有権を人間の掌中へと奪還した……その戦果に敬意を表しこそすれ、懸念を抱く事などありませんよ」
「フン……民話の遺物など、人類が探究蓄積してきた叡智〈科学〉の前には迷信時代の俗害でしかない」
「そして、やがて〈科学〉は総てを凌駕する……と?」
「そうだ」
「〝生〟と〝死〟さえも?」
「例え〈神〉でさえも……だ」
ウォルフガングが自尊に息巻いた。
その様に重ねて、サン・ジェルマンは思うのだ──その先に何があるのだ──と。
永き歳月に噛み締めてきた虚しさを、彼は呑み殺す。
悟られてはならない。
「それで? 今宵は如何なる御用件を?」
「……何度も言わせるな。『Fの書』だ」
寸分違わず予想通りの追及が向けられた。
毎夜のようにウォルフガングが来城する理由は、他に無い。
だからこそ、サン・ジェルマン卿の返事も変わらなかった。
「以前から御話ししてますが、アレはただの迷信──都市伝説というやつです。実存すらしていませんよ」
「私を見くびるなよ、ハリー・クラーヴァル!」
呪怨を込めたかのような上目遣いが、相手の名前を口にする。
ウォルフガングは知らなかった。
自身の眼前に居る相手が、史実上に暗躍した〈伝説の怪紳士〉たる〝サン・ジェルマン伯爵〟だとは……。
否、ウォルフガングだけではない。
彼の正体を知る人間など一人としていない。
仮に看破する者がいたとしたら、それは〈魔〉に属する者──〈怪物〉だ。
「既に我々は、確信を得ているのだ! かつて旧暦中世に居城した錬金科学者〝ヨハン・コンラッド・ディッペル〟は〈人造生命体〉の創造に成功し、その詳細を手記に纏めた──それこそが、我々の追い求める『Fの書』だ! そして、それは、この城に有る! 必ずな!」
「ですから、それは俗信だと──」
「いいや、有る! 何故なら、彼の〝フォン・フェルシェア〟は、此処で人体実験のノウハウを独学したのだからな!」
「──!」
動揺に息を呑む!
「だが、如何にフォン・フェルシェアとはいえ、まったくの独学であれほどの才を開花できたか? 否! そこには『Fの書』があったはずだ! それを秘匿の教書として、彼は非凡なる生体実験知識を培ったのだ!」
(侮っていた……まさか〈完璧なる軍隊〉の情報分析力が……いや『Fの書』への執念が、これほどとは)
フォン・フェルシェアは、旧暦に実在した遺伝学者である。
ベルリンに設立された〈カイザー・ウィルヘルム研究所〉の所長であり、第二次世界大戦に於いて悪名高き〈ナチス〉の生体実験施設〈アウシュビッツ強制収容所〉の確立に一役買った人物である。
フェルシェアは「ゲルマン民族以外は劣性種族であり、下等な家畜同然である」という信憑性皆無な偏見学説『アーリア・ゲルマン民族至上主義』に心酔し、非人道的所業にもユダヤ人逹を〝臨床実験動物〟として扱った。
それは〈ナチス〉が──あの史上最悪の独裁者〝アドルフ・ヒトラー〟が──掲げる理念と合致するものであり、ともすれば両組織が結託へと至ったのは当然と言える。
そして、その狂気的理念は愛弟子たる〝ヨーゼフ・メンゲレ〟へと色濃く受け継がれ、彼を〝アウシュビッツの死の天使〟と呼ばれるまでの狂人医学者に育て上げたのだ。
だからこそ、サン・ジェルマンは、改めて静かなる決意を固める。
(忌まわしい……人類が繰り返してはならない汚点……いや、絶対に繰り返させてはならない!)
それは、贖罪と弾劾を内包した義務感であった。
「どうした? 顔色が悪いぞ?」サン・ジェルマン卿──ハリー・クラーヴァルの機微を嗅ぎ取り、ウォルフガングは畳み掛ける。「或いは、貴様が持っているのではあるまいな?」
「仮に、そうだとして──仮に私が所有していたとしても、それが陽の目を見る事は無いでしょう」
「何?」
「何故なら、私自身が焚書と裁くからです」
「き……貴様?」
驚愕に席を立つウォルフガング!
悲願たる秘宝を脅迫材料と取られ、その形勢は逆転した!
が──「御安心を。私が所有していれば……の話ですよ」──クラーヴァルは余裕然とした微笑を浮かべ、現存の可能性を否定した。
今宵の対立も、平行線のまま幕を閉じた。
ハリー・クラーヴァルは形式的な礼節に準じて、ウォルフガングを玄関まで見送る。
城門前に停車してあったのは、武骨な重チタン鋼を誇る車輌であった。車高は三メートル弱といったところか。鈍く反射する鋼色が、頑強な装甲の厚さを物語る。形状的にはキャンピングカーと酷似しているものの、兵士達を収容する後部コンテナは物々しくも大きい。
「やはり雨脚が強いようですね」
クラーヴァルは闇空を仰ぎ眺めた。
雨雲さえも押し退けて存在を誇示するのは、巨大な単眼を核とした黒き月──。
白い環光で地上を照らす黒き月──。
黄色く淀んだ単眼は、威圧感に彼を見つめ返してくる。
「ミスター・ゲルハルト、くれぐれも帰路は御気を付けて……。この雷雨では視界が悪い。加えて、泥濘んだ足場では、万ヶ一遭遇した場合は厄介ですから」
護送車に乗り込まんとトレンチコートを羽織る来客へ、一応の老婆心を添えた。
「フン……〈デッド〉の心配か」軽んじて鼻を鳴らす。「何の為の〈完璧なる軍隊〉だと思っている? そもそもは、デッド駆逐を第一目的に造られた兵士逹だぞ?」
攻撃的な睨み付けに対して、クラーヴァルは優雅な一礼で謝罪の意を示す。
「失礼致しました。若輩者の無知なる非礼と、どうか御容赦を……」
「……フン」
不機嫌さを置き土産に、ウォルフガングは去って行った。
無論〈完璧なる軍隊〉が護衛に就いている以上、何の心配も無いだろう。
叩きつける煙雨で霞む情景に、物々しい車輌が遠ざかって行く。
それを黙想に見送ると、今一度黒月を仰ぎ眺めた。
地上を見据える巨大な単眼が、実際に彼を見定めているかは判らない。
その視界は、闇暦世界全土を捉えているのだから……。
さりながら、サン・ジェルマンは自らが標的とされているかのように感じるのだ。
己の心底に隠し殺した咎を看破されているかのように……。
「罪……か」
吐露にも似た呟きを噛み締め、彼は踵を返した。
「ハリー・クラーヴァルめ……喰えぬヤツだ」荒れた路面に激しく揺らされる助手席で、ウォルフガングは憤慨を吐き散らした。「ヤツは絶対に『Fの書』を所有している。縦しんば、そうでなくとも在処は知っているはずなのだ」
同意を期待して運転席へと視線を送るも、この兵士逹にそれだけの器量が有るはずもない。ただ黙々と指令をこなすだけの木偶だ。
晴れぬ不快に、雨粒が狂い殴る車窓を眺めた。
フラトレーションを解消する術は、結局自分で探り当てるしかない。
(それにしても、あの若僧は何者なのだ?)
常々抱いていた疑問が、頭の中を廻った。
(ある日、突然に現れ、あの〝フランケンシュタイン城〟へと住み着いた。爵位とて怪しいものだ。だが『Fの書』に携わっているのは明らか……)
滑る景色は全てを暗色に呑み、目まぐるしく過ぎる樹林のシルエットを〝魔物の宴〟と摩り替える。
地表には墨色のドライアイスが漂い、タイヤの位置まで車体を纏わり呑んでいた。
闇暦全土に蔓延する〝漆黒の魔気〟──〈ダークエーテル〉だ。
その中を拓き進む車輌は、まるで大海を航行する水陸両用車にも映る。
(……いったい何者だ? 何を目的としている?)
思索に集中する最中、不意に車輌が急停止した!
「うおっ? 何だ? 何事だ?」
コンソールへと突っ伏しそうになる体勢を保ち直し、状況報告を求める。
が、やはり兵士は答えない。
無表情なフルヘルメットは、機能停止でもしたかのように正面を見据えているだけだ。
訝しんで目線を追う。
左右には深緑と染まる雑木群が壁と繁り、蒼い闇と同化していた。その中央を剥き出しの土肌が道程と伸びている──現在走行してる泥濘んだ路だ。
ヘッドライトが照らし浮かばせる範囲は僅か数メートル程度しかなく、白い光に解放された空間には降り注ぐ大粒が周囲よりも力強く視認できた。
そこに、男はいた。
まるで自殺志願者のように車輌の前へと立ち尽くし、その進路を妨害している。
顔は暗がりでよく確かめる事は出来なかったが、白光に曝された衣服は襤褸雑巾を彷彿させる汚れ具合であった。
フラフラと不安定な体幹に揺れ、虚脱的に身を委ねる様は宛ら不器用な案山子か。
この男が何者か──ウォルフガングには、迷いもせず看破できた。
否、彼でなくとも判るだろう……闇暦に生きる者ならば!
「フン……デッドか」
魔界の黒霧〈ダークエーテル〉は、死体の脳へと干渉して〈生ける屍〉と再活動させる性質を宿す。
無作為無尽蔵に増産される〈デッド〉には、自我も心も欠損している。
捕食本能のみに動かされるまま人間を襲い喰らう食人屍であった。
そして、襲われた者も〈デッド〉の仲間入りをしてしまう……。
生存者を常時脅かす〝負の連鎖〟が、闇暦の自然摂理として構築されていた。
だがしかし、それは一般人に限った話ではあるが……。
次第に屍の頭数が増えていく。
繁みから、或いは暗がりから、ゾロゾロと姿を現した。あれよあれよと十人強まで膨れ上がり、ウォルフガングが乗る装甲車を取り囲む。
はたしてアイドリングの音が呼び寄せたか……それともヘッドライトの明かりか……いずれにせよ生者の痕跡が呼び水になったのは間違いない。
「……排除しろ」
コンソールのマイクを手に取ると、ウォルフガングは冷徹に命令を吐き捨てた。
それは後部コンテナで待機状態にあった〈完璧なる軍隊〉の武装兵士逹へと伝わる。
──ヴォン!
ゴーグルの奥で一斉に点る赤い目!
彼等は座していたわけではない。
各固が直立型調整庫へとフックされ、宙吊り体勢のまま休眠待機していた。
そして、上官命令によって再起動した彼等は、その指令を実行すべく解放された。
コンテナ最後尾の扉が、軋む駆動音を鳴いて左右に開く。冷却ガスが白い靄と垂れ流され、地表の黒霧と取っ組み合いを始めた。
降り立つ科学武装兵士達は機械的に標的を見定め、同時に喰屍達は獲物を捕捉する。
前哨も無く始まる交戦!
それは、対怪物戦に特化した〈完璧なる軍隊〉の虐殺劇でもあった!
ゴーグルの紅眼から照射される赤外線が屍の眉間に糸を繋ぎ、拳の甲に仕込まれた内蔵銃が弾ける火花に貫く!
如何に〝動く死体〟とはいえ、存在の要たる死脳を破壊されては活動停止に陥らざる得ない。
火花と銃声と硝煙臭──。
そして、血飛沫────。
それだけが繰り返される。
助手席で事態収束を待つウォルフガングは、やがて沈静化した環境音に煙草を消した。圧勝を確信しているからこその余裕であった。
車外へと降り立つと、周囲を展望して戦況を把握する。
万ヶ一に備えた事後警戒に佇む自軍兵士達と、頭部を撃ち抜かれて転がる死体達──。
予想通りの戦果は、取り立てて関心を抱く程でもない。
と、不意に繁みがざわめいた!
低木を掻き分けて現れたのは、少年……のデッド!
「フン……大方、家族ぐるみでデッドに襲われたか」
先刻と現在の状況を統合的な判断材料として、そう結論着く。瞬間的な演繹能力の高さは、彼の頭脳明晰さを立証するものであった。
「カアッ!」
口腔を開いた少年が、ウォルフガング目掛けて飛び掛かって来た!
鼬の如き跳躍と素早さは、小柄な体躯が為せる態だ!
しかし、ウォルフガングは平然を崩さない。
対処法は、既に叩き込んである。
手近な科学武装兵士の赤外線照準が、少年のこめかみと繋がる!
手首甲部の内蔵小径銃が火を吹いた!
が──「何っ?」──攻撃が外れた!
跳躍の慣性に標的は弾道を通過し、その銃弾は後ろ髪を掠めるのみ!
それはウォルフガング自身が招いた誤算!
子供故の小柄さ……素早さ……そして、反射神経の高さ…………そうした条件は、兵士達へ与えていない!
対象指定としてあったのは〝成人男性〟のみ!
完全に予測外の事態であった!
「クッ?」
懷の携帯拳銃を取り出そうとするも、もう遅い!
小さな肉食獣は、既にウォルフガングへと飛びついていた!
「ガアァァッ!」
「うおおっ?」
身動きが儘ならない!
噛まれないように顎下へと腕を捩じ込み、必死に押し返すだけで精一杯であった!
「何をしている! 撃ち殺せーーーーっ!」
棒立ちに対応を見せない兵士へと、戦慄とも怒号とも取れる命令を叫んだ!
生者の肉を喰い千切らんと、目と鼻の先で死顎が暴れる!
「カアァァァーーッ!」
「うおおぉぉぉーーーーっ?」
弾け飛ぶ血飛沫!
ウォルフガングの……ではない。
少年デッドの物である。
間一髪で、科学武装兵士の射撃対応が間にあった。
組み付いた事で座標が固定されたのが項を奏した形である。
まさに『九死に一生』であった。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
粗げた心拍を喘ぎ整える。
さすがに生きた心地がしなかった。
脂汗を拭いつつ、地面へと転がる死体を見遣る。
こめかみを撃ち抜かれたそれは、路傍に転がる野良犬の死骸と同じに過ぎない。先刻の野獣然とした狂暴性など微塵も感じられなかった。
徐々に取り戻した生の実感が、沸々とした憤慨へと転化していく。
「この……死体風情がぁぁぁーーっ!」
懷の携帯拳銃を乱暴に抜き出すと、物言わぬ無抵抗へと狂ったように発砲した!
幾度も! 幾度も!
装填した弾丸が尽きるまで!
カチリカチリと引き金が空鳴きすると、ようやくウォルフガングは激昂を自覚に鎮めた。
「……クソ餓鬼が!」
亡骸の腹を蹴り上げて締め括りとする。
車輌へと戻る足取りの中で、彼は改めて野望を噛み締めた。
「見ていろよ〈怪物〉共! この世界を征するべきは、我等〈人間〉……我が〈完璧なる軍隊〉なのだ!」
応接間へと差し掛かったと同時に、サン・ジェルマンは気配を感じた。
誰も居なくなったはずの室内からだ。
人間のものではない。
独特の淀んだ瘴気が、それを裏付けている。
警戒心を抱きつつ扉を開くと、久しく会わなかった顔見知りが居た。
「ィェッヘッヘッ……よう、お久しぶりだな? サン・ジェルマン伯爵殿?」
みすぼらしく痩せた黒人紳士だ。
黒いジャケット姿に、黒い山高帽子。卑しく笑う口角には銜え葉巻が紫煙を炙す。
家具の価値など些末とばかりにテーブルへと足を投げ出し、我が物顔でソファに寝寛いでいた。城主に断りも無く、酒も飲み放題だ。
「……ゲデか」
呆れとも諦めとも取れる嘆息を吐いて、サン・ジェルマンは正面ソファへと相席した。
客人から差し出されたグラスを受け取る。
「ワインも有るが?」
「ケッ! 葡萄ジュースなんざ要らねぇよ!」
高貴と卑俗という両極端な性格に在りながらも、両者は旧知であった。
決して友人ではないが……。
「何時、ドイツへ?」
「数時間前さな。ま、オレ様には〝時間〟も〝距離〟も関係無ぇけどよ……ィェッヘッヘッ」
独特の笑い方を濁声が刻む。
彼自身が言う通り〝時間〟と〝距離〟は無意味な制約だった。
この品性下劣な男は〝ブードゥー教〟の〈死神〉──世界中何処であろうと〈死〉の臭いを嗅ぎ付けては現れ、そして〈死〉を糧と満喫しては去って行く。彷徨の疫病神である。
「それで? わざわざ懐かしんで来たわけではないようだが?」
「まぁな」
相槌も漫ろに、グラスのウィスキーを呷った。
と、死神の性質を想起したサン・ジェルマン卿は、懸念に眉を潜める。
「まさか! 君が訪れたのは?」
「ィェッヘッヘッ……そう警戒しなさんなよ? 別にドイツを餌場にしようってんじゃねぇ。ま、それも一興だが……残念ながら、オレ様はロンドンに赴なきゃならねぇのよ」
「ロンドン?」
予想外の返答に、内心ホッとした。
ゲデにしてみれば、そうした忌避感もお見通しだが……。
品行方正ぶった詭弁者に疎まれるのも、これまた心地いい。
肴のナッツへと手を伸ばし、死神は続ける。
「どうやら吸血鬼共が新興勢力を立ち上げようって動きがあってな、その下調べってトコだ」
「そこで、また混乱を引き起こそうと?」
「ィェッヘッヘッ……刈り取るのは、まだまだ先さな。充分熟れてくれなきゃ旨くもねぇしな。今回は下調べだよ」ウイスキーの酒瓶を取ると、主人の承諾など得る気も無いままに二杯目を注いだ。「しかし、超科学の軍隊……ねぇ? オレ様に言わせりゃあ『カルト魔術』も『科学盲信』も同じ。違いが解らねぇやな……ィェッヘッヘッ」
皮肉な指摘に同感を噛みなからも、サン・ジェルマン卿はそれを示す事をしなかった。
この男とは距離を置きたい本音もあったが、何よりも彼自身がそうした文明の恩恵に肖る人間だからであろう。他人事ではない。
落とす眼差しにグラスの氷を遊ばせ、サン・ジェルマン卿は話題の進展を促した。
「それで? 此処へ来た本題は?」
「邪険だねぇ? そんなに早く帰ってもらいてぇのかよ?」ニタリと歪んで茶化す。「既知として警告に来てやったんだよ。近ぇ内にドイツ……殊に、このダルムシュタッドは荒れるぜぇ?」
「……何?」
ピクリと反応した機微を嗅ぎ取り、ゲデは軽い悦を味わう。
「どうやら〈ロキ〉の野郎が、何かを画策してやがる……ま、何かは知らねぇがな? あの野郎が姦計しているならロクな事じゃあるめぇよ……ィェッヘッヘッ」
「馬鹿な!」
サン・ジェルマン卿は戦慄に立ちあがった!
「ロキは幽閉されているはずだ。やがて訪れる〈神々の黄昏〉まで、何処かの洞窟へと……」
北欧神話に名高い悪神〈ロキ〉──そもそもは北欧の神々〈アース神族〉と敵対する種族〈霜の巨人〉に属する者でありながら、狡猾に取り入って神々の仲間入りを果たした異端である。
その性根は邪悪。
目の前に座る死神と負けず劣らずの〝悪徳の申し子〟である。
「へっ……〈神々の黄昏〉だぁ? そんなモン来るはずァねぇだろ」
ブードゥー教の死神が嘲た。
北欧神話に於いて、神々の終末戦争は事前に決定されている──その結末までも。
最高神〈オーディン〉が『未来予知の目』を所有するが故だ。
即ち、発端から末路に至るまで万事が〝運命〟であり、言い換えるならば『運命の消化試合』とも表現できる。
それが〈神々の黄昏〉と呼ばれる終末戦争だ。
北欧神話が他の神話群と一線を画する特色である。
「御存知の通り、現在は闇暦だ。旧暦ならいざ知らず、この現世魔界で〈終末世界観〉もクソもあるかよ。キリストも仏陀も匙投げ、大天使も弥勒菩薩とやらも出る幕は無ぇよ。在るのは忌み呪われた〈怪物〉だけさ……ィェッヘッヘッ」
「しかし、オーディンの未来予知は絶対のはず……」
「そんなモンに依存するからさね。未来なんざ手繰りきれない糸の束だ。何かの拍子で歯車なんざ簡単に狂っちまう。オーディンが見てるのは、その一本に過ぎねぇのさ。そもそも、こんな未来を、誰が予見した? ああ、確か終末預言者がいたか。尤も、そいつに耳を傾けなかった結果、闇暦世界が顕現したんだがな。一九九九年七の月にな……ィェッヘッヘッ」
眼前へと持ち上げたウイスキー越しに、死神は万事を見透かすかのような目を覗かせる。
「人間が何をしたか……心当りは、あるだろうよ?」
深淵を想起させる瞳力──普段のおどけからは見せない深い闇だ。
「……〈冥女帝〉か」
先代領主〈冥女帝〉──北欧神話に於ける〈冥界の女神〉である。
そして〝悪神〟の娘でもあった。
「娘の仇討ち……か」
「ィェッヘッヘッ……あの野郎が〝父娘愛〟なんて安っぽい情で動くたァ思えねぇよ。目的は『闇暦の覇権』さね。だが、事を起こす口実としちゃあ充分だ」
重い沈黙が刻まれる。
ややあってゲデは再び道化を装い、辛辣な讒言に纏めた。
「ま、どちらにせよ神界の奴等は現世に介入できねぇ。何せ〈黒月〉が強力な負念で遮ってるからな。ロキにしてみれば好機だよ……ィェッヘッヘッ」
サン・ジェルマン卿はドサリと腰を下ろす。
「ロキが復活すれば、おそらく多くの犠牲が……」
「だろうな。ロキが動いて、平穏無事で終わるワケは無ぇ。何せ、あの野郎は〝世を疎み、世に疎まれる忌み児〟だ。世が混沌と嘆きに包まれれば包まれる程、ヤツの喜びと達成感は満たされる。況してや、現在は人間側も〈軍隊〉──確か〈完璧なる軍隊〉とか言ったか──を持ってやがるからな。火種は充分だ。陰惨な混沌は免れめぇよ。羨ましいねぇ? ロンドン行きを取り止めてぇぐらいだ……ィェッヘッヘッ」
最低な下劣ぶりを置き土産と吐き、ゲデは満足気に席を立つ。
どうやら、そろそろ旅立つ気になったらしい。
山高帽子を身嗜みと被り、ステッキを回し遊びながら窓際へと歩き出す。
「それにしても意外だな」
サン・ジェルマン卿の言葉に、窓際で立ち止まった。
「あ? 何がよ?」
「何故、こうも貴重な情報を? 君は、てっきり悪神とは馬が合うものだと思っていたが?」
「冗談よせやィ? あの野郎なんざ大っ嫌いだよ!」
「ほう?」
「キャラが被ってやがる……ィェッヘッヘッ!」
サン・ジェルマン卿は乾いた苦笑を返答とする。
どこまでが本気か分からない──つくづつ食えぬ男だ。
「ま、あの野郎よりもイケ好かねぇモンもあるがな」
「何だね?」
「そいつぁ〝絶対死なねぇヤツ〟だよ。不死の男さんよォ? ィェッヘッヘッ!」
「ッ?」
「何をしても死なねぇ存在──自然の摂理からも魔の理からも外れた異端──実に怖ぇねぇ? ィェッヘッヘッ……ィェッヘッヘッヘッヘッ……」
下卑た嘲笑を置き土産と木霊させ、死神は黒く霧散して去った。
「ゲデめ、私の過去を軽く覗いたな」
立て続いた緊迫から解放され、疲労感のままに深く背凭れる。
仰ぐシャンデリアに放心を乗せ、孤独な想いを無意識に吐露した。
「私は……どうしたら償える…………」
込み上げる感情を堪えつつも、彼は涙を流せなかった。
悲しみと後悔と懺悔──それを抱え生きる事が自らに課した罰だと知るから……。
雷雨が騒ぐ。激しく責め立てるかの如く。
静まり返った広い部屋は、それを無遠慮に響かせ続けた。
それは、彼を〈咎人〉と糾弾する刑罰であった…………。
落雷の怒号を子守唄と身を委ねて〈娘〉は夢幻をたゆとう。
──彼女に会いたい……。
その想いが、日々募る。
──彼を護らなければ……。
その意志が、現状に焦燥を抱かせた。
──彼女とは……彼とは誰だ?
奇妙だった。
見知らぬ相手に、強く呼ばれている感覚だった。
その不可解な感覚を〈娘〉の心は持て余し続けた。
忌むべき〈娘〉──。
憐れな〈娘〉──。
彼女に〝名前〟など無い。
ただ〈娘〉という名詞で識別される存在……。
されど、それは名前ではない…………。
存在の意味すら見つけられない現状では、まだ〝名前〟を求める事すらおこがましい。