雷命の造娘:~第三幕~ありがとう Chapter.6
「マリー……」
「お姉……ちゃん……」
その胸に顔を埋めて泣きじゃくる少女を〈娘〉は優しい包容に撫で続けた……「いい子、いい子」と。
街路から外れた路地裏──。
我が身には御似合いの汚ならしい掃き溜まり──。
だが、現状だけは、それさえも楽園と思えた。
外界では〈娘〉が生んだ虚に乗じて、人質達が逃げおおせる喧騒が続いている。
些末な騒音だ。
気にする程ではない。
この幸福に比べたら……。
呪われし巨躯は壁に背を預けて蹲り、小さき無垢を包むかのように抱き庇い続けていた。
宛ら、世界中の穢れから守ろうとするかのように……。
やっと抱きしめられた……。
ずっと、こうしてあげたかった……。
どんなに望んでいただろうか……。
この小さな温もりを……。
優しい時間が戦場に流れる……。
嗚呼、時間が止められたら…………。
だが、いつまでも、こうしてはいられない。
向かわねばならない──決着に!
だから、伝えよう。
大好きな〝友達〟に。
「……マリー、ごめん」
「お姉ちゃん?」
涙に腫らした目を向けて、マリーは不思議そうな表情をしていた。
その愛しさへ〈娘〉は、穏やかな微笑みを注いだ。
「何が……ゴメンなの?」
「うん、三つの〝ゴメン〟がある」
後れ毛を鋤き揃えてあげながら言う。
「一つ目の〝ゴメン〟は、怖い思いをさせてしまった事」
「パレードの日の事?」
「うん」
「ううん、もういいの」
「マリー?」
「わたしの方こそゴメンね? お姉ちゃん、わたしを守ろうとしてくれただけなのに……」
「マリー、怖くなかった?」
「ううん、怖かった」
「……そうか」
素直で無垢な答えに、二人は淡い苦笑をクスッと交える。
「もう一つの〝ゴメン〟は……これから私は、また〝怖く〟なる」
その言葉を聞いた時には、さすがにマリーの表情も強張った……一瞬ではあるが。
「それって、またあの時みたいになるって事なの?」
「そう」
「あの〝悪い人〟を、こらしめるために?」
「うん、そう。だから、私を見ないでほしい」
頬を撫でてあげる。
一房の温かさであった。
大きな手には繊細な柔らかさであった。
「何で? 怖いから?」
「うん」
「平気よ!」
「マリー?」
思いもよらない拒否に〈娘〉は目を丸くする。
然れど、円らな正視は巌とした意志に言うのだ。
「怖くても見る! わたし、お姉ちゃんを見守っている!」
「ダメ、怖い」
「平気だってば!」
「ダメ、もっと怖い」
頑固な意固地同士が譲らない。
互いに〝大好きな相手〟を想うからこそ……。
さりとも、軍配は幼女の方へと味方する。
「だって、お姉ちゃんだもの! どんなに怖くなっても、お姉ちゃんだもの! 大好きなお姉ちゃんだもの!」
ようやくにして、マリーは告げる事が出来た。
ずっと伝えたかった想いだ。
この本心だけは、どうしても伝えたかったのだ。
そして、その言葉は〈娘〉の心に染み入り、仰ぐ雷天に持て余す激情を噛み締めていた。
(嗚呼、許されるのか……こんな幸せが…………)
狂気に造られた〈娘〉──。
歪んだ愛情の結晶たる〈娘〉──。
人間達に嫌われる〈娘〉──。
存在を望まれぬ〈娘〉──。
そんな〈娘〉が、愛されてもいいのですか?
そんな〈娘〉が、愛してもいいのですか?
世界よ────。
「……分かった」
噛み締めた想いを胸の奥底へと大切に仕舞い込み、慈しみにマリーを立たせる。
そして、ゆるりと身を起こすと、再び大通りへと向かうべく歩を刻んだ。
固い意志を踏み締める巨躯は、一転して力強さを熟させている!
「あ、待って! お姉ちゃん、最後のひとつは?」
背中越しの訊い掛けに足が止まる。
ややあって振り向いた顔には微笑が刻まれていた。
優しくも愁いを含んだ美しい微笑みが……。
それが〈娘〉の返答であった。
倒すべき相手は〈神〉!
これから身を投じるのは……死地だ!
ぶつかり合う拳!
激しい〈神力〉か!
力強き〈生命〉か!
斥力を潰して反発を咬むエネルギー!
ロキとサン・ジェルマン卿の闘いは互角と言えた!
「意外だな……サン・ジェルマン! テメェは、てっきり知略派だと思っていたぜ?」
「東洋武術には〈気〉という概念がある。己が〈生命力〉と〈精神力〉を源泉とし、現実的な力へと転化させる術だ……」
「だったら何だ!」
「つまりは、本質的に〈神力〉と近しいという事だ!」
弾きあう!
地面の後退りを踏み止まり、両者は相手を睨み据えた!
「……クソが!」
腹立たしさを吐き捨てるロキ。
コイツといい、あの〈娘〉といい……何故、こうも〈神〉たる自分と渡り合えるヤツがいる!
それも〈科学〉だ〈錬金術〉だと〝神の理〟から外れたヤツラが!
「ロキィィィーーッ!」
右頭上から斬り掛かって来る奇襲!
「チィ!」
逸早く殺気を察知すると、ロキは上体ずらしの紙一重にて刃を避わした!
「すっこんでろ!」
左掌中に発生させた〈神力〉の塊を、娘の腹へと叩き込む!
「ぐふっ!」
短い苦悶を吐いた!
憎悪篭るパワーに弾かれ、ヘルは逆転したベクトルへと吹き飛ぶ!
否、厳密には自ら後方跳躍に力を受け流してダメージを軽減したのだ!
そのまま合流するかの如く、サン・ジェルマン卿の傍らへと着地した!
二対一の図式が、牽制に睨み合う。
(サン・ジェルマンの野郎、人間共に微かな希望を与える事によって、オレの〈神力〉を微々ながらも弱体化させやがった。おまけに、ヤツラを保護しようとする〈冥女帝〉には〝畏敬〟が集まり始めてやがる)
パワーバランスの均衡化……それこそがサン・ジェルマン伯爵の狙いであった。
それでも未だロキに軍配が上がるのは、そもそもの底値が高いからだ。
たがしかし、この闘いが長引くのは得策ではない。
(こんな様を見りゃ、ますますオレへの〝畏敬〟は失墜し、逆に〈冥女帝〉の株は上がる。やがては完全にトントンだ……いや、最悪、逆転すらありえる)
そして、小賢しいのは、サン・ジェルマン卿自身は討とうとしていない事である。
ヘル以上に戦闘慣れしているにも拘わらず……だ。
(あくまでもヘルを立てて、自分は脇役に徹するってか。そうすりゃオレを確実に疲弊させる事が出来て、ヘルの勝率は更に上がるもんなぁ? おまけに畏敬差も、ますます開くときた)
付け焼き刃にしては、よく練られた策である。
腹立たしい。
(このままじゃジリ貧……何とか手を打たねぇとよ。手っ取り早く〈神力〉を増やす方法を……)
対峙に構える敵を交互に観察する。
と、持ち前の狡猾さが冴えを見せた。
(……一か八か、やってみるか)
正直、気乗りはしない。
それを実行するという事は、自らの〈神格〉を下げてしまうという事なのだから。
が、背に腹は代えられないのも事実だ。
(どうせ闇暦の世だ……永続的な闇に遮蔽された世界じゃあ、いまさら〈神界〉もクソも無ぇか)
腹を据えた。
胸中に涌く邪笑は噛み殺す。
姦計を悟られてはならない。
怒濤と襲い来る顎!
ヨルムンガンドの執念は、ひたすらにブリュンヒルドを追尾し続ける!
「しつこい! これだから〈蛇〉というものは!」
優雅な旋回に避けながらも、さすがに焦れてきた。
無理もない。
反撃手段が無いのでは好転などありはしない。
(せめて神槍さえ使えれば……!)
歯痒さに握り締めた武器へと視線を落とす。
仮に〈神力〉を込めたとて、所詮は下界の凡庸武具だ。
況してや、あの超巨体である。
(保っても一撃か二撃……最悪、ダメージすら与えられずに朽ちるでしょうね)
だからこそ、使用を躊躇していた。
気休めの急造武器とはいえ、この大怪物に丸腰で挑む無謀さなど持ち合わせていない。
思考に意識を泳がせたのは一瞬である。
が、狡猾なる敵は好機を見逃さなかった!
大きな湾曲に向き直る蛇頭。
確かに距離はある。
到達までに、またも間合いを計られるだろう。
だが、飛び道具ならどうだ!
「シャ!」
毒液!
それを戦乙女へと向けて吐き出した!
「しまった!」
咄嗟の横跳びに避わすも、その動作がロスとなる!
開く口腔が至近距離まで攻め詰めていた!
「牽制を?」
姦計を悟るも、既に遅い!
「キシャアァァァーーーーッ!」
「クッ!」
渋っている暇など無い!
迎撃せねば殺られる!
意を決して急造神槍での特攻を繰り出した!
(せめて、効果的な部位を!)
本能的に身体が動いた!
目だ!
目を狙う!
刺突!
突進の勢いと渾身の体重を乗せた刺突!
「ギシャアァァァァァアアアグッ!」
鼓膜を破るかと思える咆哮が、甲高い悲鳴と響き渡った!
激痛に暴れ狂う上体が、潰された右目から血飛沫と体液を撒き散らす!
地表へと落ちたそれは、付着した建物を膿に朽ちさせていた!
「毒素? 何という猛毒!」
使い捨ての槍を手放したブリュンヒルドは、離脱に眼下の惨状を見定めゾッとする。
おそらく毒液と同じ成分なのだろう。
もしも、それを浴びていたとしたら!
改めて先の槍を見れば、ブスブスと爛れ朽ち始めていた。
己の末路だったかと想像すると、改めて戦慄を覚える。
「ですが……これで、こちらも打つ手は無し…………」
再認識を強いる現実。
強く噛み締めるのは絶望か焦燥か。
「どうやって……どうやって倒せば…………」
明答の見えない思索を巡らせる。
憤怒の蛇瞳が睨み据えてきた!
「キロキロキロッ!」
チロチロと踊る二股舌が、生理的嫌悪を触発する。
「クッ!」
小型円盤盾を身構え隠れる戦乙女。
気休めでしかない。
「キシャアァァァーーーーッ!」
鎌首を勢いと転じて、鱗樹が襲い来る!
洞穴と開けた口腔!
白亜の鍾乳石から滴るは、はたして唾液か毒か!
「クッ! 最高神よ!」
祈りを盾に乗せる!
それが何にもならぬであろう事は承知だ。
(最悪の場合、ヤツの体内から〈神力〉を全開放するしか!)
玉砕覚悟の自爆を決意した。
らしくない……が、それでコイツを道連れにできるなら!
それで人々を救えるなら!
そして、それで親友を──〈娘〉を援護できるなら……。
(後は……頼みましたよ)
脳裏に浮かぶ優しい醜美へと微笑む。
卒爾!
──ザンッッッ!
両者を隔てるかの如く、闇空より〝光の柱〟が立った!
それは虚を突いた顕現に、大蛇の鼻頭を斬り裂く!
「キシャアァァァーーーーッ?」
刻まれた激痛を仰ぎ吠えた!
一方、謎の光はブリュンヒルドの眼前に集束していく。
これが何なのかは解らぬが、凄まじい〈神力〉である事だけは把握した。
そして、やがて形を為した正体に、ブリュンヒルドは驚嘆するのであった!
「これは……魔剣〈グラム〉?」
見間違うはずもない!
かつて〈赤竜〉を倒した剣だ!
かつて、己が自害に用いた剣だ!
そして……かつて愛した英雄の魔剣だ!
(嗚呼、シグルズ……)
込み上げる想いのまま手に取る。
刀身の内に滾る〈神力〉は荒々しい!
「これなら……いける!」
力強く口にする。
直感ではない……確信だ!
だから、戦乙女は高く飛翔した!
蛇竜の頭頂よりも高く!
両手構えの魔剣を振り構え、激痛に躍り狂う巨柱を凛とした正義に睨み据える!
「タアァァァアアアーーーーーーッ!」
振り下ろされる刃!
刀身から放たれる膨大な光は〝巨人の剣〟と世界を裂き、恐るべき神敵を唐竹と割った!
「キ……シャァ……ア!」
断末魔さえも呑み込む〈神力〉!
血飛沫すら噴散させずに消滅させていく熱!
斯くして、忌むべき魔獣は葬られたのだ。
確約された運命〈神々の黄昏〉ではなく、不確定な現実〈闇暦〉の流動にて……。
激戦の余韻へと浸る戦乙女は、ややあって瞼開いた美貌を闇空へと向ける。
然れど、見据えるは遥か先だ。
「……見守っていてくれたのですね、シグルズ」
胸の奥にて〈愛〉を噛み締める。
いつかは会える──そう信じていた。
例え、どのような形であっても……。
「いま暫く、この魔剣は御借りします。この世界が……この闇暦の世界が晴れるまでは…………」続ける言葉に〈悲恋の王女〉は頬を濡らして微笑む。「その時は……その時は、また私を愛してくれますか?」
果てなく深い黒雲は、純情なる愁訴さえも遮る。
それでも、乙女は約束を風に乗せた。
きっと再会できる……いつかは。
「馬鹿な! ヨルムンガンドが殺られただと?」
信じ難い現実に、ロキは驚愕した!
有り得ぬ事態だ!
あってはならない事態だ!
まさか〈神魔狼〉に続いて〈大蛇竜〉さえも倒されるとは!
それも、あの〈女怪物〉ならいざ知らず、たかだか半端な〈戦乙女〉如きが!
これで最終兵器を二体共、失った!
「ふ……ふざけんじゃねぇぞ……ふざけんじゃねぇぇぇーーーーッ!」
わなわなと吠える憤慨!
直後──「がふっ!」──熱い痛みに血を吐いた!
その源へと視線を注げば、己の腹へ深々と突き刺されている手刀!
サン・ジェルマン伯爵だ!
僅か数秒の放心を隙として、懐へと踏み入っていた!
「らしくない迂闊だな、ロキ……戦いの最中で、他の事に意識を持っていかれるとは…………」
「テ……テメエェェェ……がはっ!」
叩き込まれる〈気〉が、体内から血を押し出させる!
「ロキィィィーーーーッ!」
背中を斬り裂く大鎌!
それは娘からの止めであった!
「がっ? ヘ……ヘル! テメエェェェッ!」
肩越しに睨め付ける呪怨!
さりとも、娘は愁訴で応えるのであった……零れ落ちる寂しさのままに。
「何故、親で在ってくれなかったのですか……何故、親として接してくれなかったのですか……私も……兄上達も……ただ……ただ…………なのに、何故?」
「ッざけんなよ……クソ共がァァァーーッ!」
この期に及んでも、総てが無駄──その再認識だけを悲しく噛み締め、冥女帝はキッと顔を上げた!
「悪神よ──ダルムシュタッド領主として……〈北欧神族〉の一柱として……貴様を裁く!」
「ッギャアアアァァァァァァーーーーッ!」
耳を覆いたくなるような断末魔!
背中から叩き込まれる激しい想いと、腹部から注がれる巌たる意志が、悪神の存在を蝕んだ!
が──「クックックッ……」──不意に聞こえた含み笑いが、二人の断罪者を怪訝に惑わす。
ロキであった!
他ならぬロキが邪笑に溺れている!
「な~んてな? クックックッ……」
姦計──そう察したサン・ジェルマン卿は、咄嗟に体勢を大きく押し崩してヘルを弾き飛ばした!
「あうっ!」
路面を滑り飛ぶヘル!
即座に臨戦意思へと身を起こすも、その眼前に展開していたのは戦慄の光景であった!
「な……何?」
取り込まれている!
サン・ジェルマン伯爵が!
攻撃と加えた右腕は、肩口付近までガッチリとロキの腹へと呑み込まれていた!
「クッ! 抜けん!」
焦燥に足掻く宿敵へ、ロキは優越めいた種明かしを始める。
「礼を言うぜ、サン・ジェルマン? 叩き込んでくれてよォ?」
メリメリと進行する捕食!
「確か〈気〉とやらは〈神力〉と近しい性質だとかホザいてたよなぁ?」
「貴様は……何を?」
「おまけにテメェは〈不死身の男〉──特性は〝無尽蔵の生命〟だ。生命力を転換する〈気〉とは相性バツグンだよなぁ?」
「まさか! 貴様は?」
「オレへの畏敬が減少して〈神力〉がジリ貧っていうなら、テメェの〈気〉とやらを代用にすりゃあいい! 何たって畏敬とは無縁なエネルギーソースだ! ヒャハハハハハハッ!」
「グッ!」
既に半身がヤツに取り込まれていた!
「……バッテリーになってもらうぜ、サン・ジェルマン!」
「ぐぁぁぁ……っ!」
激しさを増した雷雨に叩きつけられつつ、ようやく〈娘〉は戦場へと帰ってきた。
ヨルムンガンドの最後は見届けている。
あの巨体だ。何処に居ても顛末は把握できた。
ならば……残すは!
滝飛沫のように視界を曇らせる街路を黙々と歩み、やがて悪神の下へと辿り着く。
「ッ!」
視認した途端、表情が驚愕に凍りついた!
ギリギリと首を片腕で絞め吊るされているのは、悲壮な痛みを刻んだ冥女帝!
近くに転がり崩れているのは、満身創痍の親友!
気配を察知した宿敵は〈娘〉へと邪笑を向けると、飽きたかの如く贄を投げ捨てた。
「よォ? 来たか、バケモノ?」
「うん」
無抑揚が応える。
「んじゃ、決着をつけるとするか?」
「うん、そのつもり」
一際けたたましい轟雷が、雌雄決する合図と化して世界を白く染め潰した!