雷命の造娘:~第三幕~ありがとう Chapter.5
「クッ……決め手が無い!」
高度を取った滞空に眼下を分析し、ブリュンヒルドは歯噛みした。
街並みがミニチュア模型と矮小化する巨大な蛇体は、鎌首をもたげて彼女を威嚇する!
(街人達を庇うヘルに反撃は期待出来ない……私独りが刃となるしかないが……!)
歯痒さに己が武器を見るも、人間界に溢れる凡庸な代物だ。到底、神敵に通用するはずもない。いや、折れ砕けていないだけでも善しとせねばなるまい……危惧して使わぬように心掛けているとは言え。
(せめて神槍が復元できるまでに回復していれば!)
無い物ねだりだ。
敵は待ってなどくれない。
否、仮に〈神槍〉が復元していたとしても、それで戦況が好転するとは限らない。
相手取るのは、あの〈神魔狼〉に匹敵する大魔獣なのだから!
「キシャア!」
蛇頭が塊を吹いた!
毒々しいそれを、ブリュンヒルドは咄嗟に回避する!
外れた汚泥は背後の家屋を呑み込み……融解した!
毒液だ!
「厄介な!」
汚らわしい攻撃を嫌悪する!
続け様に蛇柱が闇空へと滑り伸びた!
ブリュンヒルドを呑み込まんと迫り開く顎!
「儘!」
左への跳躍に避ける!
怒濤と流れ過ぎる鱗の壁が、視界総てを圧迫に染め潰した!
(やはりブリュンヒルド一人には重荷……せめて我が加勢できれば!)
上空の攻防を見極めながらも、ヘルが防御を解く事は無い。
一瞥する背後には、保護せねばならない命が在る。
「よぉ、娘? お友達を助けに行かなくていいのかよ?」
悠然とした茶化しが、彼女の孕む焦燥を煽った。
父神だ。
「……ぬけぬけと!」
腹立たしさに正面の敵を睨み返す!
その憎悪を受け止めつつも、ロキは涼しく悪態を続けた。
「大変だなぁ? そんな足手まとい共を一手に引き受けてよォ? いっそクソッタレ共なんざ見棄てちまえばいいじゃねぇか? そうすりゃ〈戦乙女〉を助けに行けるだろ? ヒャハハハハハッ!」
外道な提案に背後がざわめく。
また畏怖の念が高まった。
が、ヘルはそれを背中に浴びながらも、絞り出す憤慨に返すのだ。
「……黙れ」
「あん?」
「黙れと言っている! ロキ!」
「……テメェ? 誰に物を言ってやがる?」
スゥと細まる威圧。
だが、現在の冥女帝は臆する事無く吼える事が出来た!
「我はダルムシュタッド領主・冥女帝なり! 民を見捨てて本懐があろうか! 何人たりとも手出しはさせぬ!」
「……ヘッ、御大層な志だな?」渇いた加虐心が苛立った。「ヨルムンガンドォォォーーッ! ソイツは後回しだ! まずはコイツらを喰らっちまえぇぇぇーーーーッ!」
父神の命を受け、踊る巨獣がピクリと思考に制止する。
そして──「キシャアァァァーーーーッ!」──狂暴なる毒牙は再び地上の贄へと狂い襲った!
「いけない!」
すぐさま蛇頭を追うブリュンヒルド!
注意を惹き付けたのが水泡と帰した!
「クッ!」
上空からの襲撃に、ヘルは〈神力〉を振り絞る!
(正直、これまでに疲労は激しい……されど、護らねばならぬ! 尊き命を!)
「ヒャハハハハハッ! ヒャーーハハハハハハハッ!」
狂騒する高笑いが耳障りだった!
「ヒィィ!」「うわぁぁぁ!」
背後には恐怖する悲鳴!
その中には、マリーもいる!
「いやぁぁぁーーっ! お姉ちゃーーん!」
落雷!
闇天を裂く落雷!
白く轟いた光の柱が、邪悪な魔獣を鞭打った!
脳天から尾の先端まで貫き刺す痛み!
堪らず反り倒れる巨大な蛇体!
幾多もの家屋が圧し潰れ、瓦礫と粉塵を噴き上げる!
「ま……まさか?」
背後の宙空から放たれた一矢に予感を覚え、ブリュンヒルドは沸き立つ想いのままに振り返った。
雷孕む黒雲を背に、しなやかな巨躯が黒髪を靡かせる。
「……フッ、来たか」
待ち望んでいた参戦に、ヘルは淡く苦笑していた。
確信していた事だ……この〈生命〉が目覚める事は!
「バ……バカなッ?」
驚愕に呑まれるロキ!
仰ぎ見るに信じ難い!
あり得るはずがない!
だが、間違いなかった!
青白き帯電纏うその姿を、己が見間違うはずもない!
「お……姉ちゃ……」
滲む視界が少女から言葉を奪う……。
凛々しく──禍々しく──愛のままに──戦うために──聖女は──怪物は────〈雷命の造娘〉は、そこにいた!
一撃を加えられた憤慨は如何程か!
巨蛇は我を見失って荒れ狂った!
標的は、新たに加わった〈雷の娘〉!
黒雲が稲光と猛雨の交響曲を轟かせる中で、濁流と蛇体が踊り流れる!
迫る毒牙!
押し寄せる口腔!
その巨大な災厄を、然れど〈娘〉と戦乙女は宙を滑るかのように避わし続けた!
焦りは無い。
臆する事も無い。
そして、油断も無い。
確固たる冷静さの前には、蛇竜の独り足掻きは無様にさえ映る。
「ブリュド」
「ブリュンヒルドです!」
「コイツは何だ?」
「神敵たる蛇怪〈ヨルムンガンド〉──神魔狼〈フェンリル〉の弟です!」
「そうか……じゃあ──」
何を言わんとしているかを汲み、ブリュンヒルドは頷いた。
「──ロキの息子です」
「……そうか」
憤怒のままに怒濤と押し寄せ来る口腔!
「キシャアアァァァーーーーッ!」
だが──「ふんっ!」──渾身の雷拳!
迫る蛇頭の横っ面を殴り抜く!
またも仰け反り崩れる巨体!
倒れ沈む鱗樹の幹に街並みは瓦解し、数秒前には人が住む家屋だった物体が石材や木材の残骸と噴き散らかす!
想起される虚しさを拳が噛んだ。
眼下の敵を見据える。
視線が繋がった。
「よぉ、バケモノ」嘲笑した侮蔑に奴は吐く。「ったく、何なんだ? テメェはよォ? ブッ殺したはずだぜ?」
「ああ、そうだな」
「ヘッ、不死身かよ? テメェは?」
「いいや」
返ってくるのは、湖面のように鎮まった眼差し──冷静な感情──それが、ますます癪に障った!
恰も憐れみのような……慈母性のような……反吐が出る!
何故なら、自分は〈神〉だ!
凡百な〈怪物〉とは格が違う!
根本から〈北欧神族〉の奴等とすら異なる!
特別だ!
特別だッ!
オレは特別なんだッッッ!
それを……たかが〈怪物〉風情が!
「クソが!」
込み上げる苛立ちに、自尊のメッキが穿ける!
然れども、激情と向けられる敵意に〈娘〉に動ずる様子は無い。
「……ロキ」
「ああっ?」
「先に謝っておく。もう躊躇しない……オマエの息子を殺す」
「な……っ?」
「そして、次はオマエだ」
一瞬、さすがのロキもゾッとする。
何の感情も帯びず平然と死刑宣告を口にする〈娘〉は、宛ら〝殺戮マシーン〟にすら思えた。
好機は訪れた。
堪え忍んだだけの価値はある好機だ。
父親の反応を盗み窺えば、忌々しさの歯噛みに滞空する敵を注視している。その意識は完全に仰ぐ戦況へと傾けられ、まるで周囲への関心を失念していた。
だから、実娘は憐れみの念すら抱くのだ。
(相変わらず目先の事にだけ囚われ、自らの視野を狭める……そんな事だから何も得られぬのです、貴方は)
ともあれ、ようやくにして行動が起こせる。
手近な人間を目で探せば、すぐ傍には例の幼女が居た。
「そなた、確か〝マリー〟とか言ったな?」
声を押し殺して呼び掛ける。
思わずビックリした顔を向けるマリー。
まさか〈先代領主様〉から声が掛かるとは思っていなかったようだ。
「あ、はい。ヘル……女王様」
すぐに悄々とした厳粛さを染めて、畏敬を示した──子供ながらに程度だが。
「……ヘルで善い」浅い苦笑に砕ける。「これより我が隙を作る。その内に、領民達に示せ──『逃げよ』とな」
「え?」
意表を覚える指示であった。
てっきり〈冥女帝〉は、恐るべき支配者だと思っていた。領民の〈死〉を貪り喰らう冷酷非道な魔性だ……と。
これはマリーに限らず、ダルムシュタッドの民達が抱く共有認識だ。
しかし、眼前の彼女からは、そうした邪悪な印象を一切受けない。
寧ろ、マリーは同じものを感じていた。
そう、ブリュンヒルドやお姉ちゃんと同質のものを……。
それが何かは解らないが、少なくともマリーには〝真っ黒な布に包まれた宝石〟であるかのように感じられた。彼女の感覚からすれば、ブリュンヒルドは〝白い布に包まれた宝石〟であり、お姉ちゃんは〝何にも包まれていない宝石〟だ。包んでいる物が違うだけで、同じ宝石だ。綺麗に輝いている。
だから、信用するのには数秒しか要さなかった。
「……うん、わかった!」
毅然とした信用にコクンと頷くと、マリーは指示に従って音も立てずに後方の人集りへと合流を試みる。
「分かった……か」あまりにも早い子供特有の順応に、ヘルは苦笑いを浮かべた。「さて、私も一働きせねばな……領主として!」
誰に言うとでもなく決心を吐くと、大鎌は空を円と切り裂いて清まった。
「何をしてやがる! ヨルムンガンド!」
意のままに描かれぬ戦況に、ロキは腹立たしさを吠えた!
元々〈神魔狼〉よりも知能が低いヤツだ。司令塔がいなければ暴れるしか芸は無い。
とは言えど、あまりにも無様過ぎる。
「……クソが!」
呪詛を込めて吐き捨てていた。
疎ましいのは、あの〈怪物〉だ!
「ブッ殺した……確かにな……なのに、何故だ! 何故、生き返ってやがる! 何故、おとなしくくたばっていねぇ! 何故、オレの邪魔に立ちはだかる! 何故だ!」
「それが彼女だからだよ」
不意に聞こえた声が、ドス黒い渦へと呑み込まれた意識を呼び戻す。
振り替えれば、赤煉瓦建築の狭間から一人の男が歩み出て来た。
「……サン・ジェルマン」
唇噛みに睨み据える。
好かぬ顔だ。
「そうか、テメェか? 裏で画策していやがったのは!」
「画策?」
「惚けんじゃねぇ! あの〈怪物〉がオレへの脅威になると踏んで、復活させたんだろうが! けしかけたんだろうが! ああっ?」
浴びせられる怒気に、サン・ジェルマン卿は乾いた微笑を含んだ。
「フッ、そうか……彼女は、君への脅威となるのか」
「グッ!」
失言に気付いて言葉を呑む。
が、卿は上空の戦況を一瞥し、関心薄く会話を繋げた。
「彼女は〈被造物〉だ。少なくとも〈神〉の介入によって生まれた〈生命〉ではない。言い換えれば〝神の領域外に在る超常存在〟だ──私と同じように。だからこそ、君は怖れる」
「ぅるせえっ!」
「〈神〉の根は〝畏敬〟だ。その強大さに人間は畏れ敬う。その〈神力〉に驚嘆を覚えるが故に人間は妄信的に縋る。そうして集まった想いが〈神々〉の〈神力〉へと還元される──それが〈信仰〉の原理だ。だが、彼女には、そうした念は欠落している。並列なのだよ──〈神〉も──〈魔〉も──〈人間〉も────。彼女にとっては……ね。だからこそ、君は怖れるのさ。それを心底で嗅ぎ取っているからこそ……」
「っるせえって言ってんだろうが!」
指先から放たれる〈神力〉の光弾!
左肩を撃ち抜いた!
が、その痛みを堪える間に、みるみる傷口は塞がる。
絶対に死なぬ男──殺せぬ男────つくづく好かぬ。
「チッ、何なんだよ……あの〈怪物〉は?」
「愛だよ」
「ああっ? 愛だぁ?」
「そう、愛と狂気と……人間の業の結晶だ」
「ケッ! ほざきやがるぜ……」
毒突きを吐き捨て、再び雨天を仰ぎ見た。
雷光纏う〈娘〉と〈戦乙女〉の連携に隙は無く、蛇竜はいいように翻弄され続けている。
「……阿呆が」
と、不意に聞き捨てならないざわめきが耳に聞こえた。
「……スゴイ」
「何だ……あの〈怪物〉は?」
「あの巨大蛇と互角……いや、それ以上じゃないのか?」
人質達であった!
(チィ!)
意気が再燃している!
それは彼にとって由々しき事態であった!
徹底した恐怖によって畏敬を集め〈神力〉を蓄える──その計画が水泡に帰してしまう!
(冗談じゃねぇぞ! 全世界をオレの〈神力〉へと還元する──そうすりゃ〈北欧神族〉を……あの〈最高神〉ですらも下せるってのによ!)
「ロキィィィーーーーッ!」
虚を突いた大鎌の奇襲!
明後日の方向から斬り掛かってきた刃を、ロキは咄嗟に跳躍回避した!
「グッ?」
頬に刻まれる浅い赤筋!
距離を取った着地に顔を上げれば、黒衣の襲撃者はサン・ジェルマン伯爵と並び立つ!
「ヘル……テメェェェッ?」
「ロキ! 〝ダルムシュタッド領主〟の名に措いて、この混沌を終わらせる!」
「ふざけんじゃねぇぞ! この出来損ないが!」
「もはや理不尽な威圧は通じぬ! あの〈娘〉が示してくれた──運命は変えられるものではなく、変えるものだと!」
「チィィィ!」
またアイツか!
画策していた算段が総て狂わされた!
たった一匹の〈怪物〉に!
総て!
総てッ!
総てッッッ!
「……絶対に許さねぇ」
自然と零れる呪怨。
直後、サン・ジェルマン伯爵が声高に誇示をした!
「それは、やがて〈神〉さえも下すだろう! 嗚呼、それは〈生きている証〉だ!」
「ッ! テメェ?」
呆然としていた民衆の意識が、一気に卿へと注がれる!
歯噛みしたのはロキだ!
まさか、このタイミングで駄目押しを謀るとは!
「何かね? 私は、ただ謳っただけだが? 親友との理想を……ね」
「テメェェェ……ッ!」
睨め付ける憤慨にも動ぜずに、サン・ジェルマン卿は涼しく嘯くだけであった。
肌で感じる──恐々と怯え震えていた愚民共から発散され始めた温かな光を!
それは〈希望〉だ!
早々に手を打たねばならない!
「何が〈生きている証〉だ……〈死〉を渇望していた男がよォォォッ!」
「生憎、それはやめたよ。〈娘〉に教えられたのでね……生きるという事の価値を」
「ああっ?」
「私は生き抜く……親友の生きた証としてね。例え、それが果てなく荒涼とした運命だとしても」
涼しげな瞳に宿るのは、毅然たる決意!
それは到底〈死〉を追い求めていた男とは思えぬ程の変貌ぶりであった!
(また、あの〈怪物〉か! どいつもこいつも……アイツに毒されやがって!)
募る憎悪!
その憤りを〈神力〉と転じ、悪神は肘立てた掌中に憎炎と燃やした!
「オレが殺してやるよ……サン・ジェルマン」
「かつては永い時間を語らった仲だ。魂をぶつけ合うも悪くない」
卿の掌中に灯る炎!
それは……命の炎であった!
蛇体は濁流と泳ぐ!
豪雨に染まる黒天を葦野原として!
「クッ! しつこい!」
優雅な回避に大きく距離を取り、ブリュンヒルドは辟易と吐き捨てた。
旋回に動く巨体は緩慢故に避わすに苦難は無い。
が、その持久力と執拗さは、正直うんざりしてきた。
「マリーには?」
滞空に合流した相棒へ訊い詰める。
「……会わない」
敵の挙動を警戒視したまま〈娘〉は淡白に返した。
「まだ、そのような事を……うわっと?」
またも迫る鱗の鉄砲水を、大きく距離を保った離脱で回避する。
「御会いなさい! いましか無いでしょう!」
「ダメ」
「頑固者!」
「うん、頑固」
相変わらずの朴訥ぶりだ。
(マリーといい貴女といい……まったく!)
手の掛かる〝妹〟を二人も抱えた気分である。
「いいから行きなさい! マリーは〝友達〟でしょう! 大好きな……大事な〝友達〟でしょう!」
「うん、だから会わない。マリーを、もう怖がらせたくない」
巌とした意固地ぶりには、さすがに内心イライラしてきた。
貴女は、図体だけ大きい子供ですか……と!
「友達なら〝仲直り〟をしなさい!」
「仲直り?」
「本当に〝友達〟なら、それで元通りです!」
「でも……」
「何です!」
「コイツ、ブリュド一人では無理」
「あ……」
指摘の先には、忌々しい偏執が威嚇を向けている。
確かに〈娘〉の言う通りかもしれない。
だが、それでも……!
「嘗めないで下さい! 私は、誇り高き〈戦乙……」口にして、ブリュンヒルドは言い直す──誇りのままに。「……貴女の親友です」
「ブリュド?」
「行きなさい! 悔いを残さないためにも! もしも従わないなら……」
「うん、従わなかったら?」
「……絶交です」
「それはイヤだ」
本気で驚いた表情を浮かべる〈娘〉に、ブリュンヒルドは淡い苦笑を含んだ。
そして、優しく諭すように示唆するのであった。
「だったら、御行きなさい」
「うん、わかった」
眼下を探せば、その姿はすぐに見つけられた。
いいや、例え何処であろうと見つけるであろう。
その〝愛しい存在〟を……。
「……ブリュド」
「何です?」
「すぐ戻る」
背中越しの要らぬ気遣いに、慈しみを微笑む。
「持ちこたえますよ……絶対に」
「うん」
そして、雷弾は降下に宙を蹴った!
逃さじとばかりに追う蛇頭!
だが、その追撃は渾身の一撃に弾かれる!
小型円盤盾を弾頭とした体当りであった!
仰け反りを鎌首と立て直して邪魔物を睨み据えれば、そこに立ちはだかるのは鬱陶しい〈戦乙女〉の勇姿!
「行かせませんよ……誇り高き〈ブリュンヒルド〉の名に懸けて!」