労働判例を読む#282
今日の労働判例
【みずほビジネスパートナー事件】(東地判R2.9.16労判1238.56)
(2021/8/11初掲載)
※ 週刊東洋経済「依頼したい弁護士25人」(労働法)
※ 司法試験考査委員(労働法)
※ YouTubeで3分解説!
https://www.youtube.com/playlist?list=PLsAuRitDGNWOhcCh7b7yyWMDxV1_H0iiK
この事案は、みずほ銀行の関連会社Yにみずほ銀行から転籍した従業員Xが、業務成績不良により解雇された事案です。Xは、Yに転籍後の4年間のうち、3回、最低の人事評価を受けており、裁判所も、「原告の勤務成績及び業務遂行能力が不良であったことは否定できない」と認めているにもかかわらず、裁判所は、解雇を無効と判断しました。
この判決の理論を結論から見ると、①勤務成績と業務遂行能力が低くても、「信頼関係の破壊」状態になるとは限らない、②そのためには相当酷い言動が数多く必要、ということになってしまいます。
けれども会社から見た場合、このハードルは高すぎるように思われます。
1.判断枠組み(ルール、大前提)
まず、判断枠組み(ルール)です。
最低の人事評価を受けているということは、労働契約の主債務である労務提供債務が十分履行されていない状態、すなわち債務不履行状態にあるということです。ところが裁判所は、単に債務不履行状態にあるだけではなく、信頼関係の破壊が必要である、という判断枠組みを示しています。
たしかに、継続的な取引関係の場合に契約解除が認められるためには、単なる債務不履行では足りないことが多くあります。典型的に身近な例で言えば、建物の賃貸借契約です。賃料の不払いは債務不履行に該当しますから、賃料を一回でも不払いにすれば債務不履行状態になりますが、だからといって一回の不払いだけで賃貸借契約の解除は認められません。これと同様の発想から、継続的に労務を提供し、生活の基盤となっている労働契約について、最低の人事評価を一回受けただけで解雇できない、信頼関係の破壊が必要、とする理論構成は、日本の法体制の下では止むを得ないものでしょう。
けれども、より具体的な判断枠組みを仔細に見てみると、かなり問題があります。
例えば、裁判所はXの「勤務態度及び業務遂行能力の不良」が認められるとしつつ、解雇直前のミスが無かったことなどを指摘したうえで、Xについて「直ちに改善の意欲や可能性がないとまではいえない」と評価しています。この表現から判断枠組みを考えると、以下の3点が問題です。
1つ目は、労働契約の主債務である労務提供債務の内容です。
通常、債務不履行では約束した債務を履行したかどうかという結果がまず問題とされます。
けれども裁判所は、「勤務態度及び業務遂行能力の不良」をまず問題にしています。これは、仕事の結果や提供すべき労務・サービスそのものではなく、その前提となる個人の人格や能力の問題です。労働契約で、会社は労務やサービスを提供してもらう権利を有するのに、これでは人格や能力が問題にされ、労務やサービスは十分提供されようがされまいが関係ない、ということになってしまいます。たしかに、人格や能力も大切です。けれどもこれは、労務やサービスが適切に行われる前提や基盤として必要とされるにすぎません。労務やサービスが適切に行われることの対価として給料を支払うのであって、人格や能力に対して給料を支払うのではないはずです。
2つ目は、この人格や能力に関連しますが、裁判所が、Xについて「直ちに改善の意欲や可能性がないとまではいえない」と表現している点です。
この表現を読むと、仮に人格や能力を債務の内容と位置付けることが許されるとしても、それが必要なレベルに達していないだけでなく、「改善の可能性」が存在しないことが必要、ということになります。なぜなら裁判所は、「ないとまではいえない」という理由でYの主張を否定しているからです。
このことは、人格や能力を、労働契約の主債務である労務やサービスに置き換えて考えてみると、問題がよくわかります。すなわち、労務やサービスについて不十分であっても、それが改善される可能性が僅かでも残されていれば、会社は雇用し続けなければならない、ということになるからです。これでは、普段は与えられた仕事をさぼり、業務指示に従わないのに、ときどきやる気を見せて改善する様子を見せさえすれば、いつまでも解雇できないことになってしまいます。「改善の可能性」があることになるからです。
3つ目は、今度は従業員の意識や主観的な要素に関する問題です。すなわち裁判所が「直ちに改善の意欲や可能性がないとまではいえない」と表現している部分のうち、「直ちに改善の…意欲がない」ことが必要としている部分です。
この表現を読むと、裁判所は「改善の意欲」が存在しないことまで要求しています。ここでも2つ目と同様に、裁判所は「ないとまではいえない」という理由でYの主張を否定しているからです。
けれども、従業員が「改善の意欲」のあることを証明するのであればともかく、会社が従業員の「改善の意欲」のないことを証明することは不可能です。不存在の証明は有名な「悪魔の証明」であり、それだけで極めて重い負担を会社に負わせることになりますが、さらにここでの証明対象は従業員の内心です。他人の心の中の状況、すなわち「改善の意欲」が存在しないことをどのように証明すればいいのでしょうか。
2.事実認定とあてはめ(小前提)
次に、事実認定とあてはめです。
この事案では、Xの34のミスと7の非違行為というように、非常に多くのエピソードが指摘されています。この
各事実の認定については、実際に証拠を見なければ評価ができませんので、ここでは言及しません。ここで特に注目しているのは、認定事実の評価に関する2つの問題です。
1つ目は、1つ1つをバラバラに評価している点です。
たしかに、それぞれのエピソードの有無は重要ですから、1つ1つのエピソードが事実かどうかを確認すること自体に問題はありません。しかし、これだけの数のエピソードが指摘されるということは、周囲との協調性に問題のあったことがうかがわれます。それぞれのエピソードが単独で違法なレベルでなくても、これだけ大量にエピソードがあればそれによって協調性がないことを認定することは可能でしょう。従業員は、他の従業員と役割分担をし、協力し合い、チームプレーによって仕事を進めることが要求されていますし、これが労働契約の内容となっています。この意味で強調性が労働契約の重要な債務となっているのです。そして、1つ1つではチームの関係を破壊するに至らなくても、何度も繰り返されることによってチームの関係を破壊したり毀損したりすることは十分考えられます。
このように、協調性の観点からエピソードの違法性を評価すべきだったのです。
2つ目は、直近ではないエピソードの評価です。
裁判所は、多くのエピソードについて例えば2年前のことだから、ことさら重視すべきではないなどとしてXに有利に評価しています。
けれども問題は、何度も注意されているのに改善していないことのはずです。裁判所自身が、上記1の判断枠組みの中で「改善の可能性」を問題にしているからです。ところが、数年間も同じようなミスや非違行為が行われていれば、「改善の可能性」が否定される方向で評価されるべきです。
さらに、近時の裁判例は従業員に改善の機会を与えたか、というプロセスを重視します。これは、従業員の問題ある言動と、それに対する問題点の指摘や改善の要請が行われたかどうか、他方、従業員が実際にこれを受けて改善したかどうかを問題にします。
ところがここで裁判所は、YがXに対してたびたび注意指導してきたが改善されなかった事実を認定しつつ、Yが適切なプロセスを取ったことを肯定する方向で評価していません。昔のエピソードは現在の悪質性につながらない、という違法性の程度の問題として位置付けており、プロセスや改善の機会の問題として位置付けていないのです。
3.実務上のポイント
会社経営に与える影響が大きい判断です。まだ確定していませんので、この判断自体、覆る可能性はありますが、それでもこのような会社にとって非常に厳しい判断がされる、という現実を前提に今後の実務上の対応を考えてみましょう。
ではなぜこのような厳しい判断がされたのでしょうか。
Yは、最低の人事考課が4回のうち3回与えられていることから、労働契約の主債務の債務不履行の主張をしており、同時に、数多くのエピソードを上げて協調性の無さを指摘し、労働契約の付随義務に該当する職場秩序維持義務違反の主張もしています。そして、いずれも裏付けとなる証言や資料が準備されています。一見すると完璧に解雇可能な状況ができています。
それでも足りない、という裁判所の判断は、この一見すると完璧な主張と証拠を準備するために、Yが無理をしていた、という事情があったのでしょうか。例えば、常にだれかがXを監視していたとか、Xが指示を守ろうとして誰かに相談しても誰も助けなかったとか、証拠で明確に事実として認定できないものの、そのような事情があったということかもしれません。
もちろん、それこそXの自業自得だ、という評価もできるでしょう。しかし、仮にこのような事情があるとした場合には、会社は問題社員に対しても、他の社員と同様に業務指示や注意を行い、同様に仕事を与えて人事考課をする、という労務管理の基本を忠実に実践することしか対応方法は無さそうです。
※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。
※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!