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文学のなかの美術、美術のなかの文学②―小林秀雄「様々なる意匠」―

小林秀雄は、デビュー作『様々なる意匠』のなかで、

「子供は母親から海は青いものだと教えられる。
この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもなく、赤くもないことを感じて、愕然として、色鉛筆を投げ出したとしたら彼は天才だ。
然して嘗て世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ」
と意匠批判の論拠を展開している。

小林秀雄の批評は、認識を徹底的に批判し、否定する側面と、逆に全面的に肯定し、容認する側面をあわせ持っているようである。

このどちらを欠いても小林秀雄の批評は成立し得ず、この認識批判と認識肯定の二重性として成り立っているのだろう。

私たちは、小林秀雄、というと、「否定・批判のひと」と思いがちであるが、小林秀雄の批評の本質は「肯定」の強さに在るように、私には、思われる。

小林が、認識を批判し、否定するときに依拠しているのは「概念の欺瞞性」という理論体系であり、「概念の欺瞞性」とは言い換えれば「認識の相対性」ということである。

つまり、小林の批判・否定の論拠は、概念や認識が、実在を正確に捉えきっていないという点にあり、ここにおいて小林秀雄は、「概念と実在の一致」が真理であるという真理観を前提としており、この真理の公準に照らして、あらゆる認識や表現は批判され、否定されるのだろう。

喩えば、小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、マルクス主義文学から新感覚派文学や大衆文学まで、あらゆる「意匠」を批判している。

それが「意匠」である限り実在と一致することはなく、もしも一致したならば、それはもはや意匠ではないだろう。

冒頭に述べたように、小林秀雄の意匠、言語、概念の批判の論拠は徹底しており、「海は青い」という概念と、眼前の具体的な品川の「海の色」(→実在)とが一致したらそれは真実であるが、無論、一致することはあり得ない。

「海が青い」という概念は、決して品川の「海の色」をあらわすことはできず、品川の「海の色」をことばにあらわすことはできないのである。

もし、ことばにあらわしたならば、そのとき、そのことばは、もはや「海の色」をあらわしてはおらず、何か他のものに代置されただけであり、海の色そのものではあり得なく、概念と実在の不一致は明らかであろう。

もし、概念と実在の一致が真理であるとするならば、結局のところ、何人たりとも「概念の欺瞞性」から逃れることはできないだろう。

小林秀雄の批評は、批判・否定の最中に、突然肯定に転ずる。

つまり「概念の欺瞞性」という公理を捨て、「宿命の理論」による肯定へと転じるのだが、このとき、小林秀雄は、「概念と実在の一致」が真理であるという真理観、ないしは世界観をも捨てているのだろう。

そして、もうひとつの別の真理観、ないしは世界観へ、その思考軸を転換させているのだが、この思考軸の座標変換に伴う小林秀雄の批評の動きは、極めてラディカルであり、極限から極限への飛躍であるといってよいだろう。

「様々なる意匠」において小林秀雄は、もっぱらさまざまなる意匠を、つまり概念や思想を、それらは決して実在を捉えていないという点から批判し、否定しているだけのように見えるかもしれないが、それだけで「様々なる意匠」という批判原理論が終わっているわけではなく、むしろ、「様々なる意匠」の中心的テーマはそこにはないのではないだろうか。

先に述べたように、小林秀雄の批評には、もうひとつの側面、
「ある人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。
その人の宿命にかかっている」という側面が在る。

おそらくこの側面は、小林秀雄以外の批評家たちにはほとんど見ることができず、批評をすぐに批判し否定することだと思い込んでしまう私たちと小林秀雄を区分するものでもあるだろう。

この小林秀雄の「宿命の理論」とは、「概念と実在の一致」が真理であると考えるような認識論の崩壊のあとで、それに取って代わるべき認識論として出現したものではないだろうか。

小林秀雄は『様々なる意匠』のなかで、「宿命の理論」について、

「中天にかかった満月は五寸に見える、理論はこの外観の虚偽を明かすが、五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない。

人は目覚めて夢の愚を笑う、だが、夢は夢独特の映像をもって真実だ」

と表現している。

「中天にかかった満月は五寸に見える、理論はこの外観の虚偽を明かす」ということは認識の相対性を表しているのではないだろうか。

認識を厳密にしてゆくと、それ以前の認識は結果的に虚偽ということになるのだろう。

もし、古典物理学的な認識論を前提としており、客観的な実在の認識が可能であるならば、その認識を基準にして認識を基準にして、「真」か「偽」かを判定することができるだろうが、量子力学は、それが原理的に不可能であることを明らかにしており、私たちが「真」か「偽」かの基準にしていた科学的な尺度も、原理的にいえば相対的な観念にすぎないことになるのではないだろうか。

また、小林秀雄は、古典物理的な認識論を前提にする考え方から離れて、『感想』のなかで、

量子力学という、

「新しい物理学は、客観的自然の客観的記述という物理学の仮定を捨てた」

とすれば、

「五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない」

ということばがいきてくるような表現をしている。小林秀雄が、「概念の欺瞞性」に拠る批判から、「宿命の理論」による肯定的批評へと転じるときは、このような表現のなかにも現れているように思う。

小林秀雄は、この認識論の転換について、すでに昭和7年の頃に、『アシルと亀の子』のなかで、

「全自然が一つの運動ならば、もはや、人間は自然の外側に立って、存在する真理を認識し、表現する者として現れはしない。

認識する主観も、認識される客観も対立して存在するものとして現れはしない。

思惟と存在の区別も、ただそんなたとえ話も可能であるというに過ぎぬ。

すべては運動の形態である」

と、説明している。

これは、小林秀雄の古典物理学への批判であり、また、近代哲学への批判であるといってよいだろう。

「主観と客観の二元論」、「思惟と存在の二元論」あるいは、自然の外側に立ち、存在する真理を認識し、表現するという形而上学、これらは、いずれも量子力学が相対化してしまった概念であろう。

しかも、これは、小林秀雄も言うように、ベルクソンがつねに批判し続けてきた概念である。

「すべては運動の形態である」という主張は、明らかにベルクソン哲学の主張と重なっており、小林秀雄は、『感想』の第54回目で、ベルクソン哲学と量子力学の一致を確認している。

小林秀雄は、『感想』のなかで、

「内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考えは、発表当時は、理解し難い異様なものと思われたが、今日の物理学が到達した場所から、これを顧みるなら、大変興味ある考えになる」

と述べている。

小林秀雄にとってベルクソンの哲学と量子力学の知見とは、ほぼ同じ意味を持っていたようである。

小林の「宿命の理論」は、ベルクソン哲学と量子力学を前提にして読み直す必要があるのではないだろうか。

世界観ないしは存在感の転換という問題を理解せずして、小林秀雄の「宿命の理論」を理解することは出来ないように思う。

小林秀雄は、その批評の内部で「物」的世界観から、「場」的世界観への転換を行っており、前者に固執するひとたちをよそに、小林自身は、古典物理学の世界を踏み越えて、相対性理論や量子力学によって切り拓かれた、現代物理的な「場」の世界像のなかにいるようである。

それをみるとき、私たちがいまだに、小林秀雄以前の古典的なパラダイムのなかにとどまっていることを感じるのではないだろうか。

小林秀雄は、量子力学との一体感さえ、『人間の進歩について』のなかで、湯川秀樹と行った対談の際に述べており、小林にとって「量子物理学」が、小林自身の芸術論、批評論とほとんど同じものであったことを、私たちは、うかがい知ることができる。

小林秀雄が、

「五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない」

というとき、量子物理学における観測の不確定性という問題が念頭に在ることは明らかであるように見える。

小林秀雄の「概念論」から「宿命論」への、言い換えれば、認識の相対性から認識の絶対性への転換は、小林秀雄の批評の基礎構造を形成しているのだろう。

例えば、小林秀雄の『様々なる意匠』における「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換もまた、この問題を批評の位置と構えという側面から捉えたもののようである。
小林秀雄は、この転換について、

「扨て今は最後の逆説を語る時だ。

若し私が所詮文学界の独身者文芸批評家たる事を希い、而も最も素晴らしい独身者となる事を生涯の希いとするならば、今私が長々と語った処の結論として、次のよう様な英雄的であると同程度に馬鹿馬鹿しい格言を信じなければなるまい。」
と言った上で、

「私は、バルザックが『人間喜劇』を書いた様に、あらゆる天才等の喜劇を書かねばならない」と言っている。

小林秀雄は、このような言い方で、自身の批評の根本原理について語ったように、私には、思われる。
小林秀雄は、ここで、

「天才等の喜劇を書かねばならない」と言っているが、ここでいう天才とは「作家」のことであろう。

ここで、私たちは、ニールズ・ボーアの

「量子論にあっては、私たちは、俳優であるし、観客でもある」

ということばを想い起こし、

量子論においては、「観測者」はもはや、観測対象や観測行為に対して、客観的な第三者の立場には立てないということを想い起こす必要があるのだろう。

つまり、観測者は、「観客」在り続けることは出来ず、いつの間にか自らが、「俳優」になってしまっているのであろう。

古典物理学においては、観測者は、観測の対象を、対岸から、第三者として観測すると言うことが前提されていた。

これに対して、量子論においては、観測者自身が観測対象のなかにはいりこみ、観測者の行動をも観測対象に入れなければならなくなった。

小林秀雄が、「観測者」としての「作家」を問題にしたということを以上のように考えるならば、極めて画期的なことだろう。

作家は、「人間」という対象を観測する古典物理的な観測者であり、これに対して、「観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背景にしているのである。

小林秀雄のいう「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換という問題は、古典物理学的世界像から量子論的世界像へのパラダイムチェンジを、別のことばで、つまり、文学的次元のことばで言い換えたものだと言ってよいのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

このシリーズでは、文学のなかの美術だけではなく、美術のなかの文学も(→ダリやブリューゲルなど)次回以降描いてみたいなあ、と思っています😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

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