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文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑯ージョージ・オーウェル『1984年』ー(トランプ氏の大統領就任まであと5日)

多くの美術評論家は、ヒトラーの絵画を技術的には一定の水準に達しているとしながらも、感情や独創性が欠けていると評価している。

特に、匿名で行われた評価では、「建築物の描写は素晴らしいが、絵に心が感じられない」
と指摘されているようであり、よく言えば模範的な絵だが、模範的なあまり面白味には欠けており、画家の個性も重要視されるようになっていた時代には、やはりヒトラーは画家として大成できなかったのだろう。

少年期のヒトラーは、軍人や政治家よりもむしろ画家になる夢を抱いており、風景画や建築物に強い興味を持ち、スケッチブックに描き続けたことが記録されている。

確かに、1912年に描かれたヒトラーの『ウィーン国立歌劇場』(→見出し画像)に見られるように、建築物の緻密な描写が際立っているのだが、人物や自然描写への関心が欠けていることが特徴的で、建物のデッサンはハイレベルだが、それ以外への興味が薄かったともいえる。

ヒトラーは建築デザインには向いていたかもしれないが、ファインアートには向いていなかったのだろう。

実際、1907年にウィーン美術アカデミーの入学試験を受験したとき、彼の提出した作品に「人物デッサン」が欠けていたことが理由で不合格となっており、試験官たちヒトラーの建築デッサンの才能を認めつつも、当時の審査記録には、
「頭部デッサンが少なく、全体的に課題が不十分」
と記されており、ヒトラーに建築家になることを勧めたようである。翌1908年に再び受験するのだが、不合格となり、画家への道を断たれる結果となり、この経験は彼に深い屈辱感を与え、のちの政治活動や思想形成に影響を及ぼしたと言われている。

ウィーン美術アカデミー入学を諦めたヒトラーは、糊口をしのぐため、ポストカードや風景画を描き、それを観光客や地元の商人に売り歩きいたのだが、主な顧客はユダヤ人商人だったことが記録されているが、このことも、のちのヒトラーの政治活動や思想形成に影響を及ぼしてしまっただろうかと考えると悲しくなる。

ところで、まもなく大統領に再び就任するトランプは、アメリカを、世界を、どう変えるのだろうか。

私が思い出すのは、2016年の大統領選以降しばらく、人々の不安を表すかのように、ディストピア小説の名作である、オーウェルの『1984年』『動物農場』、ハクスリーの『素晴らしい新世界』、シンクレア・ルイスの『ここでは起こりえない』、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』の6冊が、いきなりアマゾンのベストセラーランキングの上位に躍り出たことである。

そのひとつである1949年にイギリスの作家ジョージ・オーウェルが小説『1984年』のなかで描いたディストピアは、鏡の世界であり、何もかもが見かけとは反対になる。

例えば、平和省は延々と戦争を続け、真理省は党の偽りのプロパガンダとつじつまが合うように、過去の記録を改ざんしている。

また、愛情省にいたっては拷問を行っている。

......オーウェルの小説のなかの世界だけではないようにも、私たちのいる世界にもこれに近い光景があるようにも、私には思えるのだが、最近まで、西欧において、オーウェルの小説『1984年』の読者は、そこで描かれている薄汚い欺瞞、常時行われる監視、善意による残酷さが、アメリカと対峙する国、特にロシアにだけ存在する特殊なものである、と半ば確信し、ある種の優越感を抱くことが出来ていた。

「ビッグ・ブラザーと思想警察だなんてSF小説らしく想像力が豊かだ」
とか
「文明世界に住む私たちは、全体主義に汚されることはなく、また全体主義に支配される心配もない」
と思えていたからである。

こうした状況が一変したのは、トランプがロシアの独裁的な手法を真似し始めたときからであろう

トランプのツイートや記者会見は、『1984年』で描かれた言語「ニュースピーク」で行われているかのように、私は感じることがある。

トランプの周囲により、トランプの虚偽発言は「オルタナティブ・ファクト」(もう一つの事実)だとごまかされてしまい、不都合な事実を掲載した政府のウエブサイトは一掃されてしまった。

また、トランプにとって、最大かつ最重要な戦いはメディアとの戦いであろう。

ファクトチェックを重要視する自由な報道機関によって、トランプの恐れ、その結果として起こる怒りはあおられているようである。

どんな独裁者にとっても、純然たる真実やそれを表現したものほど危険なものはないだろう。

また、どんな独裁政府にとっても、真実を否認すること、真実を語る勇気のあるひと人々を否認することほど大事なことはないのであろう。

『1984年』でイギリスの作家ジョージ・オーウェルが1949年に描いたディストピアでは、ビッグブラザーと思想警察がテレスクリーンを通じて市民のあらゆる動きを監視し、会話の一言一句を隠しマイクで聞いている。

自分の子どもを含め、至るところに密告者がいて、あらゆる思考、感情、人間関係について政府に密告する。

使用言語は「ニュースピーク」である。

先にも述べたように、この鏡の世界では何もかもが見かけとは反対になるため、

目下のスローガンは「戦争は平和である」「自由は服従である」「無知は力である」である。

党の方針に従わなければ、「思想犯罪」となるため、善良な市民は、「メモリーホール(記憶口)」と呼ばれる深い穴に危険で不都合な真実を投げ入れる。

党の正当性に反対する者は「非実在者」として歴史から抹消される。

オーウェルの描く、この鏡の世界では真実が偽りであり、偽りが真実なのである。

また、愛情はビッグブラザーに向けられなければならないとされ、個人の結びつきは国家に対する犯罪行為で、各人の1番の弱点を攻撃する特殊な拷問によって罰せられる。

思想警察は、この物語の主人公であるウィンストンがネズミを極端に恐れ嫌っていることを知った上で、大型で獰猛なかなりお腹を空かせたネズミが入ったカゴを、彼の顔に押しつけるのである。

警察は、彼が助かるために、彼が言わなければならないこと、感じなければならないことを指示してはくれない。

しかし、まさにカゴの扉が開こうとしたとき、ウィンストンの頭に、発すべき正しい台詞がひらめくのである。

それは、

「ジュリアにやってくれ」
である。

ジュリアはウィンストンの最愛の女性である。

愛する女性を「自ら進んで」裏切った、となれば、ウィンストンの狂気は正され、彼が善良で信頼できる市民として社会に再び迎え入れらえるようになるのは明白だ。

当然ジュリアの方も、同じようにウィンストンを裏切ることによって正気を取り戻していた。

党は彼/彼女たちの服従だけではなく、愛情も欲している。

物語は、ウィンストンが涙を流しながら、テレスクリーンに映るビッグ・ブラザーを見上げ、彼への愛情を確認し、自らに対して勝利を収めるところで終わる。

トランプが登場する前からすでに、スノーデンの暴露文書によって、アメリカ政府が巨大な監視機関となっていたこと、国民には嘘をついていたこと、CIAが『1984年』のなかの「思想警察」とさほど変わらない手法と精神のもとに、精神的・肉体的拷問を行っていることが明らかになった。

「ビッグ・ブラザー」が人の心を読み取り、思考を共生する手段は、独裁者になろうとする者が今日利用することができる監視技術と比べれば、悲しいほど未熟な手段であると言えよう。

プライバシー、思想の自由、民主主義が、現在ほど独裁的に操られる危機にさらされたことは、これまでになかったのではないだろうか。

さて、ヒトラーは主に古典主義やルネサンス、新古典主義的なスタイルを好み、台頭しつてある前衛的な美術に対しては嫌悪感を抱いていたようである。

ナチスの美術政策は、単なる文化的統制に留まらず、プロパガンダ、社会統制、民族意識の強化を目的としたものであり、この政策により、芸術の自由を奪い、多くの才能ある芸術家たちのキャリアは破壊されたと言えるだろう。

ナチスの芸術観と政策が、独裁的な思想と結びつき、いかに芸術が政治の道具として利用され得るかを示した歴史的な例であろう。

また、ナチス政権は、芸術をプロパガンダとして活用し、「健全な肉体美」を象徴する彫刻や絵画、そして「農村共同体」を描いた作品をナチスが理想とする「強いドイツ民族」のイメージを形成するために用いたようである。

さらに、1937年、ナチス政権はミュンヘンで「退廃芸術展」を開催し、近代美術を否定する目的で展示された作品は1,000点以上に上り、ピカソ、シャガール、カンディンスキー、キルヒナーなど、当時の著名な画家たちの作品が含まれていたようである。

展示は意図的に劣悪な環境で行われ、壁には「病的」「退廃的」「ドイツ民族を侮辱する」といった侮辱的な言葉が書かれ、作品は歪んだ視点から展示され、来場者に嫌悪感を抱かせるよう工夫されていたようである。

退廃芸術として排除された芸術家たちは、ドイツ国内での活動を禁じられ、多くが亡命を余儀なくされ、なかには逮捕や強制収容所送りとなった人々もおり、命を落とした例まであったようである。

過去の歴史が、私たちに教えてくれることは、民主主義は、貴重な統治方法であるが、歴史上ではあまり多くはみられない、危険なほどもろいものでもある、ということである。

民主主義的な政府をはじめて樹立したアテネは、扇動的指導者によって民衆が悲惨な決断に導かれ、その短期的試みは失敗に終わった。

プラトンは民主主義がそれほど機能しない制度であると考え、自分が理想とする国家ではそれを禁じた。

400年前に西欧で民主主義の先駆者が台頭し始めると、哲学者のホッブズやヴィーコは、その動きが必然的に、混乱と中央集権への復帰を招くと予測した。

過去300年の歴史から、民主主義はうまく機能している場合は最良の統治形態であるが、対立、組織の分裂、混乱、腐敗に悩まされると最悪の統治形態となることが証明された。

世界には、今、失敗した何十もの「民主主義国家」が在り、内戦や無政府状態、全体主義者による権力奪取のまっただ中にあるか、そうした方向に向かいつつある。

ちなみに、昔のイスラムの格言には、
「人民の人民に対する1年間の専制政治よりも、サルタンによる100年の専制政治の方がまし」
というものがある。

私たちの民主主義がいつまでも安泰だと信じるには、アメリカを含む世界の民主主義国家の多くで復活しつつある反民主主義の傾向に目を瞑らなければならないようになりつつある。

恐怖、不安、国家主義、経済危機、外国人排斥、レイシズムに煽られるかたちで、急進右派の政党や政策が急速に票や支持、社会的信用を集めている。

また、テロなどに対する反射的な過剰反応の影響で、市民の権利は縮小し、監視網が拡大している。

歴史上、民主主義国家が失敗しているのは、下手な決断が下されたり、決断が下されずに政治が停滞したりした結果、混乱に陥ったり、強者による敵対的な権力の奪取を招いたりしたときなのであろう。

この世界は、予想されるトランプによる政権の混乱により、民主主義がこれ以上機能せず、その結果生まれた政治の空白を独裁者がぴったりのタイミングで埋めてしまうという、多くの人々が最も恐れていることを現実にすることなどない世界であり、「鏡の世界」などではない、私たちは過去から学べるということを、私は、信じたい。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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