社会のなかの芸術、芸術のなかの社会①ー描きすぎたジミー・カーターの1979年7月15日に行った演説ー(トランプ氏の大統領就任まであと2日)
「余白」や「空白」は、長谷川等伯の主題であろう。
等伯の時代よりもあとの江戸時代の絵画の技法書『本朝画法大伝』に
「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」
ということばがあるが、私たちは、絵画においては、かつてより空白地帯をゼロ地帯とは見做さず、そこにこそ意味の比重を加えようとしてきたようである。
『松林図』のなかで、「余白」や「空白」は、はっきりと主題として開花し、絶妙に結晶しているようである。
それは、精緻な描き込みを意図的に回避することで、逆に見る側のイメージを活性化させ、描かれていない部分に、見る側の活発なイメージの生成を呼び起こし、結果として大きなイマジネーションが湧き立つからであろう。
『松林図』は、六曲一隻の屏風で、勢いのある筆触を以て松林を描いているのだが、そのなかには、さまざまな白や空白が運用されている。
松の木そのものは、荒い筆遣いで描かれており、必ずしも緻密な写実性を持たないのだが、私たちは、この筆致によってむしろリアルな松を想起し、表現の粗さと省略は豊富なイマジネーションを覚醒させることを知るだろう。
また、水墨画には、「破墨」と呼ばれる荒く素早い筆法は、精緻な描写からの逸脱を意味し、リアルな描写を逃れた粗の筆致であるから、見る側が、その未完の景観を補完し、イメージのほとばしりを加速させる。
そのような仕組みが『松林図』にはあるのだろう。
『松林図』の仕組みとは、真逆の効果を与えるものの例として、「2025年1月19日の私」が想起するものは、1979年7月15日に、カーターが行った「社会の沈滞(malaise)」と呼ばれた演説で、正式なタイトルは「A Crisis of Confidenceである演説とその後の有権者の反応である。
政治家が、先走って有権者に現実を押しつけようとして、有権者に、怒りや不安、困惑を感じ、さらには頑固な考えを抱いて、政治家とともに世界を見る意欲を無くしてしまった例だからである。
確かに、真実は、人を自由にすることも確かにあるのだが、相手の側にそれを聞き入れる準備ができていなくてはならないし、その真実は、正しいタイミングと方法で伝えられなくてはならないのである。
カーターが、真実ばかりを押し付けるのではなく、楽観論を必要とする有権者の隠れた苦悩を汲み取ると同時に、その苦悩を和らげる現実的な方法を見つける取り組みを、有権者とと共に少しずつ歩んでいたならば、金融危機も、アフガニスタンにおけるアメリカの「グレートゲーム」の加速も、国家の公正性が問われることも無かったのかもしれない。
ところで、精神療法家と政治家には、多くの共通点があり、影響を及ぼす範囲は大きく異なっているかもしれないが、目標や手法が極めてよく似ている、と、私は思う。
なぜなら、両者とも、明言されることも隠されることもある動機を理解し、それらに訴えかけることによって相手の態度や行動を変えようとするからである。
精神療法家が1度に1人の患者に働きかけるのに対して、政治家は何百万という人々に影響を与えるが、両者が持つスキルはよく似ている。
精神療法において、精神療法家と患者との協調に必要なことは、政治家と私たちの協調に必要なことでもあるのではないだろうか。
以下は、精神療法での基本的なルールなのだが、ルールのなかの「患者」を「有権者」に、「精神療法家」を「政治家」に置き換えて見てほしい。
・精神療法家は、誠実であること、また、患者にも、誠実であるように促すこと。
・患者との強い絆を築かなければ、患者を助けることは出来ない。
・患者の言葉づかいで話をする。
・患者の話をよく聞き、患者が精神療法家から学ぶのと同じくらい多くのことを、患者から、学ぶようにする。
・精神療法家の努力すべてが患者本人に向けて行われていることを、患者にわかってもらう。
・共感と信頼が治療に最も必要な要素である。
・痛みや恐怖、怒り、落胆を自由に表現するように、患者を励ます。
・患者のニーズと、患者がそれをどのように満たして欲しいと感じているかを確認する。
・現実的な目標と期待について話し合う。
・性急な判断をしない。
・徐々に希望を持たせる。
・事実や数字よりも、比喩やイメージ、例え話を用いる方が有効である。
・精神療法家が自分の感情を意識し、それを効果的に活用する。
・治療中の何もかもが同じ重みを持つわけではないことを理解し(→精神療法で語られた内容の10%に満たないことが、患者の変化の90%以上に貢献することもある)、患者が潜在的に持つ変化への転換点に常に注意し、変化を起こすためにできることは、何でもする。
これらのルールを見てゆくとき、よろしくない政治家たちが体現し、悪化させてしまっている社会の狂気を癒そうとする政治家には、精神的なアプローチを学ぶことは有用だ、と、私は、感じることがある。
また、ゆっくりと、おだやかに今の社会を現実に引き戻すとき、政治家には、精神療法家と同様の戦略が、必要になるだろう。
さて、長谷川等伯の『松林図』は、松の木を描いているというよりも、松の木々の間の空間を描いているようであり、画面に描かれた主役は松の木たちではなく、むしろ木々の間の空気そのものを描いているようである。
余白は不在としてではなく、その向こうの松の林へ続く濃密なの奥行きとして私たちに認識され、また、私たちはその余白のなかを浮遊感とともに自在に漂うことができるだろう。
そこには、喧しく、諄々しい説明など不要なのである。
同様に、精神療法家が、妄想を抱く患者に対して、その患者が信じているものが間違いで自滅的であることを証明しようとして、事実に基づいた議論を行うことは、まず、ない。
いかにその妄想がはたからみれば、とんでもなく間違っていて、有害だったとしても、患者にからみれば、妄想はつらい現実の埋め合わせをする手助けをしてきたのであり、妄想が間違いで害を及ぼすものだからといって、捨て去ることが出来るものではないのである。
精神療法家が、先走って患者に現実を押しつけようとすると、患者は、怒りや不安、困惑を感じ、さらには頑固な妄想を抱いて、精神療法家とともに治療に取り組む意欲を無くしてしまう可能性がある。
真実は、人を自由にすることも確かにあるのだが、患者の側にそれを聞き入れる準備ができていなくてはならないし、その真実は、正しいタイミングと方々で伝えられなくてはならないのである。
優れた精神療法家は、妄想を必要とする患者の隠れた苦悩を汲み取ると同時に、その苦悩を和らげる現実的な方法を見つける取り組みを、患者と共に少しずつ行っていく。
精神療法家は、患者の苦しみへの共感を表すことが重要で、患者が妄想によって、その根本原因を避けていることの是非は問わない。
精神医学において妄想とは、
「強固に維持された揺るぎない誤った信念であり、決定的な証拠や理性的議論による修正にも抵抗するもの」と定義されている。
また、動詞として「妄想させる」と使われる場合は、
「誤ったことを相手に信じさせる」という意味になる。
社会の妄想は、それを広め信じる者にとっては、逆に有益な目的を果たす。
そしてそれが、社会や世界にとって誤った、危険なものであるから、という理由だけで、捨て去れるものではない。
だからこそ、勇気を持って事実と向き合うようにカーターのように、政治家が、有権者に素直に呼びかけても、有権者に、それを受け容れる準備が出来ていなければ、有権者は怒りや恐怖や不安を感じ、政治家と共に参政する意欲をなくし、その政治家は選挙に負けることがある。
精神療法家が、最初に行うべき、最も重要なことは、患者の立場に身を置いて考えることである。
政治家もまた、
「自分が、この人の状況にいたら、私もこの人のように行動し、考え、感じるかもしれない」という前提に立つことから始めることが良いのではないだろうか。
政治家が有権者に、最初に行うべき、最も重要なことも、同じであろう。
そのとき、有権者側のリアクションも必ずや変わるだろう。
私たちは、長谷川等伯の『松林図』にみられるように、何もない空白に、細密な描写以上の豊かなイマジネーションを見立てていくという、逆説的な絵画表現を、尊び、育んできた。
冒頭にも紹介した、「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」
ということばは、私たちの、日本人の、かつてより空白地帯をゼロ地帯とは見做さず、そこにこそ意味の比重をしようとする心性が表れており、そのような心性が日本人の美意識の重要な一端を作っていることをも表しているだろう。
「余白」の意味を知る日本だから、「余白」の、コミュニケーションのコンセプトを知る日本人だからこそ、「余白」を用いて何ができるかを考える時期に来ているのかもしれない。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。