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小林秀雄の文学批判=批評のなかで②ー三島由紀夫が私たちにみせる「思想を構築すること自体のなかにある批判・否定されるべき自己欺瞞」ー
小林秀雄は、ベルクソンの「分析と直観」の考え方を応用して、本居宣長について『考へるといふ事』のなかで、
「宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。
彼の説によれば、『かんがふ』は、『かむかふ』の音便で、もともと、むかへるという言葉なのである。(中略)『むか』」の『む』は身であり、『かふ』は交うであると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きでなく、物と親身に交わることだ。
物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう」
と言っているが、ここからは小林という批評家が、ベルクソンの「分析と直感」の考え方を応用しながら、さらに絶えず思考の原理とでもいうべき問題を問い続けていることがわかる。
また、ここで、本居宣長を通して言われている思考は、決して科学的な思考と矛盾してはいない。
むしろ、科学的な思考の本質を鋭く対象化した例だといってよいだろう。
無論、ここで言われている「考へる」ということは科学主義的な思考のことではなく、あくまでも科学的な思考のことである。
柄谷行人は、「昭和批評の諸問題」という座談会のなかで、
「大岡昇平は、若い頃に付きあった小林秀雄の中に理論的なものの徹底性を見ていて、その影響を深く受けてしまった。
そのために批評家としてはやれなかった。
戦争のせいで、彼は小説家になったけれども、知的な徹底性をある意味では死ぬまで持ちつづけたわけですね。
それに対する中村光夫は、小林秀雄の影響は受けたかもしれないが、理論的な徹底性みたいなものはまったく共有していない。
従って、批評家としてはスムーズにやれた。
中村光夫に比べれば、小林秀雄の方がダメなように見える。
しかし、本当にそうなのか。
小林は戦後になってもベルクソンなんかをやって、理論的な徹底性に関して一貫していると思うんです」
と言っている。
小林秀雄が、ベルクソンや理論物理学を徹底的に研究したという事実は、「理論的なものの徹底性」の根拠だと言ってよいかもしれない。
小林秀雄は、単純に科学的思考を批判し、文学的・芸術的思考を肯定したのではなく、科学的思考も、文学的思考もともに、その究極の地点においては、同じひとつの実在に触れていると主張したのではないだろうか。
小林秀雄は、最先端の科学理論を学ぶことによって、中途半端な科学主義を批判したのであろう。
科学と科学主義とは、同じではない。
たとえば、科学的発見は、科学主義的な探求の結果可能になるのではなく、科学主義は、科学的発見の結果を正当化する事によって、事後的に成立する形而上学、または物語に過ぎないだろう。
第一線のひとたちこそ、もはや科学主義という便利な道具が何の力も持ち得ないような場所で思考しているように、私には、見える。
もはや科学主義という便利な道具が何の力も持ち得ないような場所で思考することこそ、原理的に考えるということであり、ベルクソンならば、それを「持続のなかで考える」というであろう。
さて、先に「大岡昇平は、若い頃に付きあった小林秀雄の中に理論的なものの徹底性を見ていて、その影響を深く受けてしまった。
そのために批評家としてはやれなかった。
戦争のせいで、彼は小説家になったけれども、知的な徹底性をある井美では死ぬまで持ちつづけたわけですね」
と柄谷が指摘していたことを紹介したが、大岡昇平は小林秀雄の門下生であり、まともに影響を受けて受けすぎてしまった人のひとりであるが門下生ではない三島由紀夫もまともに影響を受けたひとのひとりなのではないだろうか。
三島由紀夫の生涯は「批評」との戦いの生涯だったのかもしれない。
もし、「批評」が「文学批判」に他ならないとするならば、三島由紀夫の文学的営為は、その評論を克服することが中心であったのではないだろうか。
小林秀雄以降の作家たちは小林秀雄の批評を避けて通ることはできないのだが、多くの作家たちは小林秀雄の批評とは無縁な場所で、文学という形而上学に耽っていたようでもある。
三島由紀夫が、そのような「批評の恐ろしさ」を知らない作家たちと対立することは、やはり避けられなかったのかもしれない。
しかし、三島由紀夫は、小林秀雄以降の批評家たちとも対立するのである。
なぜなら、小林秀雄以降の批評家の多くは、小林秀雄の批評を模倣、反復しているに過ぎないが、三島由紀夫は、小林秀雄の「批評」=「文学批判」を乗り越えて文学の再建を試みる側の人だからである。
三島由紀夫は、かつて近代文学が依拠したであろう近代的な知のパラダイムに依拠するわけにはいかず、しかも、単に小林秀雄的文学批判を模倣、反復するのではないとすれば、近代的な知のパラダイムを批判し、否定するだけで満足するわけにはいかなかったのだろう。
つまり、「告白は不可能だ」という自覚の下でもう一度告白を『仮面の告白』として行うことが、三島由紀夫の直面したパラドックスだったのではないだろうか。
「告白は不可能だ」という三島由紀夫のことばは、小林秀雄の文学批判=批評を念頭に置いていたものであろうし、三島由紀夫の「告白」から『仮面の告白』への移動は、三島由紀夫の「文学批判」としての小林秀雄的批評の地平から、それを内在的に反批判し、再び文学の形而上学の構築へと向かおうとする構えを示しているのであろう。
三島由紀夫の小説の主人公たちは、自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようである。
一見して、「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性の中に発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようなのだ。
たとえば、三島由紀夫は、『仮面の告白』を
「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていたそれを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った」
と書き出している。
この書き出しの一節には、三島由紀夫の特質がよく出ているように、私には、思われる。
『仮面の告白』の主人公自身も、その事実関係に拘泥しているわけではなく、むしろ、この主人公は、個のような突飛な意見が、まわりの他人に対してどういう反応を惹起するのか、という役割の問題に拘っているのではないだろうか。
三島由紀夫はさらに続けて、
「笑う大人はたいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。
そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりとした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。
ねえそうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」
と書いている。
この大人たちの過剰反応こそが、この主人公の告白=意見の目的であろう。
この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。
自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークの中に存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的だといってよいかもしれない。
したがって、この主人公が正しいか正しくないかを議論することは無意味であり、敢えて言うならば、正しくないことは、この主人公にははじめからわかりきっているのであり、科学的な説明や子供にも呑み込めるような砕いた説明も不要なのであろう。
三島由紀夫は、「告白」を嫌い、自己を語ることを極度に嫌悪していたが、それにもかかわらず、三島由紀夫は、誰にもまして、自己を語ることの好きな作家であったようである。
この矛盾は、単に批判・否定すれば済むような問題ではないだろう。
三島由紀夫が、『告白』ではなく『仮面の告白』というタイトルをつけたのは、そのことによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判・否定したかっのではないだろうか。
この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するものであろう。
『仮面の告白』は三島文学を理解する上で重要な作品であり、それと同時に日本の近代文学の認識風景のなかに置くから、反面教師的な意味で問題作たり得るのかもしれない。
いわば『仮面の告白』は近代文学批判の書ではないだろうか。
三島由紀夫は、内面の秘密などを語るために『仮面の告白』を書いたのではなくて、むしろこの作品で語られている内面の秘密こそが、『仮面の告白』という作品を成立させるために仮構された作り話なのではないだろうか。
たとえ、その作り話が、三島由紀夫の伝記的事実とどれだけ一致していようとも、作り話であることに変わりはないのではないだろう。
三島由紀夫は、『私の文学を語る』のなかで秋山駿のインタビューに答えて
「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているでしょう。
一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。
僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。
後はどんな絵空ごとを書いても大丈夫だ。
ところが、それを一生繰り返している人がいるからじつに神経がタフだと思って感心している」
と語っている。
三島由紀夫は、『仮面の告白』のなかで、「告白」という形式への批判と、作中人物と作者自身とを同一化する物たちへの批判を企図したのであろう。
三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的嫌悪を感ずるのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難いからであろう。
さらにいえば、自分にこだわっているふりをすることへの嫌悪があるからであろう。
「告白」という行為において、私たちは、自分自身に直面することなどないのかもしれない。
三島由紀夫にはオリジナルな「思想」がない、と、思うときが、私にはある。
「危険な思想家が危険なのではなく、思想を持たない思想家が危険なである」ことを、三島由紀夫は私たちに教えてくれるようである。
もし、三島由紀夫が、危険な思想家、危険な文学者であったとすれば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではなく、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからではないかと思う。
私たちは、三島由紀夫というとすぐに「美学」や「美意識」を持ち出すが、それは、三島由紀夫の思想ではありえても、三島由紀夫の存在本質を表すことばではないだろう。
「詩は認識である」という三島由紀夫のことばがあるが、三島由紀夫の問題は、「美」や「美意識」のレベルで語るべきではなく、「論理」や「認識」を通して語るべきではないだろうか。
論理的思考が衰弱したとき、私たちは「思想」を作り出すこともあるのではないか。
論理は単に実在を記述し、説明するための道具ではなく、実在との対応関係によってその真偽が確定されるものでもないだろう。
いわば、論理にとっては「意味」は問題ではなくて、論理と論理の形式的な普遍妥当性が問題になるのではないだろうか。
三島由紀夫の小説は、テーマが論理に在り、いわゆる生活の問題に無いため、無味乾燥な印象を与えることがあるかもしれないが、むしろ、私たちは、三島由紀夫の小説=作品から非実体的な論理操作のもたらす現実感の欠如を感じ取っているのかもしれない。
三島由紀夫の最初の長編小説である『盗賊』の登場人物たちはことばの「意味」を誰も信じておらず、言葉の「論理」だけで生きており、ことばの「意味」に拘る人はたちまちのうちに、その論理的な恋愛劇に敗れる他はないようである。
「意味」を信じないということは、内面を信じないということであり、また、自己意識を信じないということであろう。
三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗としての思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。
つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。
三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのだろうか。三島由紀夫が主張するのは、あくまでも対抗思想であり、いわゆるテーゼではないように思う。
つまり、三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想であるため、あくまでもテーゼを前提とした上での思想であり、それ自体が独立した思想体系たり得ているわけではないようにも、思う。
三島由紀夫の思想とは、反対のための反対の思想なのかもしれない。
だからこそ、三島由紀夫を、たとえば「反戦後」という思想や、あるいは晩年の「右翼思想」、「反革命思想」によって語ることは出来ないのではないだろうか。
むろん「反戦後」という思想や、あるいは「反革命思想」は、それ自体として十分に検討に値するであろうが、それらの思想によって三島由紀夫の問題を捉えることはできないだろう。
そして、問題は三島由紀夫の思想の内容ではなく、なぜ、三島由紀夫は単なる「反対のための反対」の思想ではなく、自立した思想を語ろうとはしなかったのか、という問題である。
『仮面の告白』の書き出しについて触れたが、三島由紀夫の小説の主人公たちもまた、決して自分の「意見」とか「思想」というものを持っていないようであり、一見して「意見」や「思想」のように見えるものも、実は、相手との関係性のなかに発生した役割としての「意見」であり「思想」でしかないようである。
『仮面の告白』の書き出しのなかでは、「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の意見に対する大人たちの過剰反応こそが、主人公の告白=意見の目的である。
「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という主人公の突飛な意見の目的は、大人たちの過剰反応によって、十分に達成されたわけである。
自分が話題の中心人物になること、つまり関係のネットワークのなかに存在の場所を獲得すること、それがこの告白=意見の第一の目的といってもよいだろう。
だから、この主人公の告白が正しいか、正しくないかを論議しても無意味であろうし、敢えて言うならば、正しくないことはこの主人公には、はじめからわかりきっているのであろう。
『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、三島由紀夫と他の同時代の文学者との差異であるように、私には、見える。
三島由紀夫の作品のなかの人物たちは、ことばの「意味」を信用しておらず、思想や意見を、その「意味」において捉えてはいないようである。
私には、『仮面の告白』の主人公は、ことばや思想を、 その「意味」においてではなくて「役割」においてとらえているように思われる。
したがって、『仮面の告白』の主人公と大人たちの差異は、ことばや思想の捉え方の差異だと言え、この差異が「意味」を生産しているのではないだろうか。
つまり、この差異が、主人公と大人たちを結びつける役割を果たしているのではないだろうか。
三島由紀夫が最も恐れていたものは、差異の消滅であり、いいかえれば同一化ということであろう。
だからこそ、三島由紀夫は決して他人の言説を肯定せず、必ずそれに対立しているようである。
というより、「対立」関係を作り出すために、反対意見で理論武装するため、三島由紀夫の意見や思想を、三島由紀夫の本来的な意見や思想とは見なせないように思う。
三島由紀夫という人は「思想」や「意見」を持たない人だからこそ、いつでも、その時代の思潮に反対するような、逆説的な、反時代的な「思想」や「意見」をものの見事に操ることが出来たのかもしれない。
私たちが、三島由紀夫的と思いがちである「芸術至上主義」や「美学」や「美意識」ということばも、三島由紀夫の本来的な思想や意見を表したものではなくて、その時代状況の関数としてしか意味を持たないことばであろう。
三島由紀夫は自決の1週間前に、古林尚「図書新聞」連載の『戦後派作家対談』のインタビューのなかで、
「私は十代の思想に立ちもどっしまった。
『敗戦より妹の死のほうが、ショックだった』と書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。
どうしていいかわからなかった。
政治のことはわからないので、芸術至上主義に逃げ、そこから古典主義に移行し、行きづまると十代の思想にかえったのです」
と言ったようである。
三島由紀夫にとって「思想」や「意見」とは何だったのだろうか。
三島由紀夫は同じ古林との対談のなかで、
「まず天皇があって、それに忠誠を誓ってゆくのではなく、自分に忠誠心が初めに在って、そのローヤリティーの対象としての天皇が必要なんだ」
と言っている。
この三島由紀夫が主体であり、天皇が客体であるという思惟構造を見ていると、天皇や芸術至上主義というような、いわゆる「思想」は、三島由紀夫にとって、正しいか正しくないかといった内容の問題として考えられているのではなくて、ただ単に「役割」の問題として考えられているように思われるのである。
そこには、正しい思想や間違った思想があるのではなく、ただ思想を必要とする人間がいるというだけではないだろうか。
三島由紀夫の恐ろしさは、そのことを知り抜いていたことにあるのかもしれない。
三島由紀夫には、『反革命宣言』というエッセイがあるが、このエッセイのタイトルが象徴するように、三島由紀夫の「思想」なるものは、すべて「反」なのであろう。
そして、それは、思想的なものに対する挑戦としての「反」なのであろう。
やはり、三島由紀夫の生涯は「批評」との戦いの生涯だったのだろう。
結局のところ、三島由紀夫もまた、小林秀雄的批評を乗り越えることはできなかったのかもしれない。
三島由紀夫の自決に際して公表された「檄」の一文は、それを暗示しているようである。
三島由紀夫は、「檄」のなかで、「告白の不可能性」という戒律を投げ捨てて、思い切り「告白」しているのではないだろか。
どこか幸福そうな三島由紀夫の姿がそこには在るようにも思える。
「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待とう、共に起こって義のために共に死ぬのだ」
三島由紀夫は、この「檄」ではじめて、その心情を「告白」し、「告白」という近代文学の装置に屈服したといってよいかもしれない。
この「檄」が、三島由紀夫にしてはめずらしい哀切な響きを伴うのは、この「檄」には『仮面の告白』ではない「告白」があるからではないだろうか。
わずか数行のなかに、「待った」という動詞を何度も反復する「檄」は、三島由紀夫の生涯を要約しているようにも、思われる。
三島由紀夫は、「待つ」人であったのだろう。
そして、それは、三島由紀夫が「主体性」の人ではなく、「関係」の人であったことを意味するだろう。
三島由紀夫は、自立的存在ではなく、あくまでも他者との関係のなかでしか存在し得ない人であったのだろう。
しかし、三島由紀夫ほど強烈な「意志の人」はいないだろう。
つまり、三島由紀夫ほど主体的で在り続けた人はいないだろう。
そして、主体的、意志的で在り続けることが、いかに不毛であり、空虚であるかを、三島由紀夫は、思い知らされていたのだろう。
「われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ」
という三島由紀夫のことばを文学的コンテクストに置き換えれば、それは三島由紀夫が「告白」のできる状況の到来を待っていたということであり、さらに厳密に言えば、「告白」 するに足る内容としての挫折の機会の到来を待っていたということではないだろうか。
言い換えれば、それは作者三島由紀夫が作中人物たらんとすることであり、三島由紀夫は、作中人物となることの不可能を自覚したとき、作品の内部においてではなくて、実生活のレベルでそれを果たそうとしたのではないだろうか。
三島由紀夫の問題は「美学」の問題でも「倫理」の問題でもなく、「論理学」の問題であったのだろう。
論理の世界では、Aという命題を認めたならば、そのAという命題から導かれるBという命題やCという命題があり得るとすれば、そのBやCの命題をも必然的に認めざるを得ない。
三島由紀夫の小説の作中人物たちは、感情や生活によって生きるのではなくて、論理によっていきており、そして、論理によって破滅するようなのである。
三島由紀夫の死は、論理や思想を徹底的に突き詰めたとき、何がその先に待っているかを象徴しているようにも、思われる。
だからこそ、私たちは、三島由紀夫を批判したり、絶讃したりするまえに、三島由紀夫の強靱な論理思考のプロセスを追跡することからはじめなければならないのだろう。
アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールとの手紙のなかにある
「純粋な思考には死以外の出口はない」
ということばは、三島由紀夫という強靱な合理精神の持ち主が、その論理的な思索と体験の果てに辿り着いた極北の思想と行動にふさわしいのかもしれない。
三島由紀夫が辿り着いた思想と行動にこそ、私たちが見たくない、目を逸らしたくなるような、ある究極の真実が隠されているのかもしれないのだから。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
※見出し画像には、ルネ・マグリットの「赤いモデル」からです。
「靴」という「問題」に対する「解答」としてマグリットが描いたこの作品を、私はなぜか、小林秀雄が提示したことに、三島由紀夫がどのように答えようとしたかを考えるときによく想起してしまいます😌