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「包丁」さんのおはなしー『荘子』の「包丁」さんですー
ある尊敬するひとへのメールがなんだか自分でも納得できたので載せてみようと思いました。
以下、私の拙い、けれどなんだか自分で納得した?メールです。
「釈迦に説法かなあ……😅と思います。
包丁さんのお話です。
キッチンで使う包丁さんではなく、『荘子』のなかで「養生集」に出てくる料理人の丁さんのおはなしです。
正しくは庖丁さんなのですが、包丁さんにしちゃいます。
古い古い記憶によると小学館の辞典の包丁の項にもキッチンの料理に使う包丁さんよりも、料理人包丁さんの意味が先でした。
元が忘れられ、枝葉が栄えるようですが、料理人包丁さんのはなしなのです。
あるとき、包丁さんは、文恵という君主の命令で、御前で腕をふるい、刀で牛を解剖したようです。
その動きは、
「合於桑林之舞」と賞賛され、素晴らしい舞を舞っているようだったそうです。
それを見た文恵君が、
「いやはや、立派だなあ。
技もここまでくるとスゴいなあ」
と褒めたところ、包丁さんは、
「並の料理人は1カ月ごとに刀を換えるのです。
骨を切るからでございます。
ちょっと腕のいい料理人は、1年に1度換えます。
筋を切るからでございます。
私は、19年この刀を使い、解剖した牛は数千頭ですが、ピカピカでしょう。
牛のもつ自然の組織に沿い、骨に筋にも当てなかったからです」
……ひとそれぞれに与えられた才能ってあるのですね……私には先生のようにはないのですが、かろうじて才能があっても、「人間の自然」に従って用いなければ、磨き方を間違えれば、刃こぼれの才能になるようですね。
「人間の自然」とは、ルソーの標語「自然に帰れ」の意味で、緑豊かな大地やジャングルではなくて、人間本来の姿なのでしょう。
人間本来の姿は私もわかりませんが、喩えばお釈迦さまの
「恨みに恨みを以てすれば恨みのやむことなし」ということばにも在るように私には思われます。
たしかに、私たちにそれぞれ与えられた才能を磨くことは大切かもしれないのですが、人間本来の在り方を欠かさないことも大切ですよね。
先のお釈迦さまのことばと、そろえてはじめて、『荘子』のなかの包丁さんのように腕をふるうこともでき、美味しい料理も作れるのでしょうか。
お釈迦さまからは少しだけはなれますが、キリスト教でも「旨い」という字を「御旨」で使いますね😊
もしかしたら「旨い」料理を作ったり食べたりすることは、いろいろいいこともあるのかもしれませんね😊」
※見出し画像は今年散歩中に撮ったものです😊