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【番外編】2016年の大統領において、なぜヒラリーは、トランプに敗北してしまったのか-アメリカ合衆国について②-

検死では、亡くなった人の身体を検査して、何が死因であるかを特定する。

検死が行われる場合は、なぜ亡くなったのかが、不明瞭である場合が多い。

そんなことが、2016年の大統領選挙において、ヒラリー・クリントンが敗北した事実を再び考えているときに、ふと頭の中を過った。

2016年の大統領選の結果は、クリントンの思いがけない敗北というよりは、トランプの思いがけない勝利というのかもしれない。

しかし、今、当時の状況を振り返っておくことは、2024年の大統領選を見る上で、役に立つことかもしれない。

不思議なことは、非常に賢い人物であるクリントンが、いかに政治の世界であれほど劣等生になってしまったのか、また、政治においては素人であるトランプが、いかにして天才になったのか、ということである。

その分かれ目は、それぞれの振る舞いに在ったのではないだろうか。

実際に、ステージ上のクリントンはよそよそしく、トランプは直接的な親密さがあった。

クリントンは真実を話していたかもしれないが説得力がなく、トランプは、嘘を語っていたかもしれないが、感情をあらわにし、大げさに効果的に、そして解りやすく語っていたため、説得力があったのである。

音楽に喩えるならば、クリントンはいつも楽典や歌詞を正確に理解していたかもしれない優等生ではあったが、音痴だったのである。

具体例は、後半に描くが、クリントンが示したのは事実のみで、感情が無かった。

逆にトランプが示したのは、事実というよりは、「事実でないことを突きつける」ことと感情だけ、だといっても過言ではなかった。

また、クリントンは、自分がトランプをはるかにリードしているのだから、あえて自分を意地悪く見せるようなリスクを冒すべきではない、という誤った考えのもとで、トランプの勝利をゆるした側面があった。

さらに、クリントンは、庶民の声をよく理解していなかった。

約20数年前、クリントンが初めて上院議員に立候補した際、彼女は、ニューヨーク州のほぼすべての小都市をまわって、「市民の声を聴くツアー」を行った。

そこで、自分は自動的に選挙に勝てると思っている、都会ずれした人間ではないと強調したのである。

有権者からすると、よそよそしく近寄りがたい存在だったのであるが、2016年の選挙において、クリントンは、他の候補に対する大幅なリードと過去の栄光に甘んじていられる、と考えていた。

しかし、田舎やラストベルトに住む有権者は、クリントンが自分たちの苦しい状況を理解しているとは、決して思っていなかった。

政策による本当の解決策は、その政策の対象となる人々と間近に接することから生まれる。

自分が貢献しようとする有権者から直接そのことを学ばなければ、その信頼を得ることは、到底、出来ない。

クリントンの磨き抜かれたイェール大学仕込みの雄弁術は、結局、大きなハンデとなっしまった。

確かに、彼女は、すぐれた弁護士であり、見事な一貫性とメリハリのある、完璧な構成の演説を行う。

一方、トランプの演説は、筋の通らないことも多く、言いたいことが不明瞭なこともかなりある。

彼が、最も活き活きと、また、生き生きと輝いてさえ見えるのは、140文字のツイートにおいてである。

しかし、多くの人々はトランプを好み、クリントンに関心を持たなくなった。

それは、クリントンと違い、トランプは、大衆にとって親しみやすく、庶民のことばで語ったからである。

トランプは、あたかも一個人として市民のひとりひとりに語りかけ、彼ら/彼女らと、個人のレベルで気持ちを通わせ、彼ら/彼女らの痛みや不安、怒りを理解し、確かめているかのような印象を与えることが出来た。

また、自分こそが、状況を正しい方向に導く覚悟と意志、そして強さを持ったビッグ・ダディであると、人々に思わせることが出来た。

クリントンの演説は、メッセージとしては、正しかったのかもしれないが、語り口が拙かったのである。

実際に、クリントンは、常に堅苦しく、原稿通りに話しているようであった。

それに対して、トランプは、感情を抑えることなく表に出していた。

クリントンの集会は、退屈で聴衆の数も少なかったが、トランプの集会は、親愛の情を深める場になっていた。

トランプが示す感情は、ときに品があるとは言えず、不快なものであることすらあったのだが、支持者たちにとっては、気持ちをすっきりと解放してくれるものであったのだろう。

クリントンは、聴衆の気持ちをつかむことに失敗した。

本来、彼女を最も強力に支持する集団であったはずの、女性、ラテンアメリカ人、黒人、イスラム教徒、移民、同性愛者の心に訴えることが出来なかったのである。

トランプが、女性との問題が取りざたされながらも白人女性の53%の票を集めたのに対し、クリントンの女性の支持は集まらなかった。

また、トランプが、ラテンアメリカ人や黒人を威嚇または非難し、白人至上主義と密接な繋がりがあったと言われているにもかかわらず、クリントンへの彼ら/彼女らの投票率は、オバマへの投票率よりもずっと低かったのである。

繰り返しになるが、クリントンが示したのは事実のみで、感情が無かったが、逆にトランプが示したのは、事実というよりは、事実でないことを突きつけることと感情だけだといっても過言ではなかった。

選挙運動の間にクリントンは、考えることができるあらゆる問題についての政策を詳細に記述した11万2735文字に及ぶ65枚のファクトシートを公表した。

一方、トランプは、苦労して政策を詳細に記述することには力を入れず、合計およそ9000文字の7つの主張だけを発表した。

しかしながら、それらは、あまり、中身があるものとは言えず、指示を求める彼の訴えは、もっぱら、攻撃的なツイートや挑発的なスローガンに込められたのである。

例えば、「アメリカを再び偉大に」、「壁を作ろう」、「彼女(クリントン)を刑務所に入れろ」、「腐敗を一掃する」といったものである。

不正確かもしれないが、ドラマチックなイメージや比喩は、重要な課題や問題に関する、正確で理知的な説明を簡単に回避させてしまうもののようである。
クリントンは、政策論争では勝ったかもしれないが、選挙には負けてしまった。

クリントンの選挙運動は、有権者の頭脳に訴えようとしたが、トランプの運動は、本能に直接狙いを定めていたのかもしれない。

結局のところ、これらの事実は、成功する政治家は、人の心と頭脳を上手くつかみ取る、ということを意味しているのだろう。

なぜなら、政治家たちは、人間の本性を理解し、それを利用することが、得意だからである。

綱領、政策、意見表明は、空虚なことばに過ぎず、そこには、有権者との感情的なつながりはない。

政治家が、有権者の話に耳を傾け、彼ら/彼女らのことを理解し、今後も彼ら/彼女らを大切にするということを伝える感情の絆が、そこには、無いのである。

理想論かもしれないが、本当の政治家とは、その人生を有権者と共に、また、有権者のために、無私無欲で歩んでゆくことを望むのではないだろうか。

勿論、それは、自分を売り込むことでもなければ、自分の権力を拡大することでもないはずだ。

民主主義の実験が始まった頃、政治的言説は、啓蒙、という、格調高い知的な形式で発せられていた。

議論には論理が必要とされ、理性に訴えなければならなかった。

2016年の大統領選挙では、度を越えた感情が、理性的な思考に勝った面がある、といえるのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
gooblogでかつて描いたものを多少なおして再掲しました。
番外編です😊

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。



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