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「革命哲学としての陽明学」と三島由紀夫-三島由紀夫という作家について⑧-
三島由紀夫は、「文人」としてではなく、「武人」として死にたいと言ったが、その意味はどのようなものだったのだろうか。
「あるとき」まで、三島由紀夫は、「文人」三島由紀夫の発言には「嘘」や「無責任」が責任を問われず、許されると考えていたようであり、それが三島の文学理論でもあったようである。
「あるとき」まで、三島は、そのような「責任」を問われることのない「文人」としての発言に満足していたようである。
それだけでも、世間を驚かすことができ、大衆の関心を惹きつけ、拍手喝采を浴びることが出来たからである。
しかし、「あるとき」はやってきた。
三島が事件の直前に発表した『独楽』という作品のなかに、「あるとき」について書いている。
要約すると、
高校生らしい若者が、三島邸の門前で、三島に面会を求めて待ち続けたことがあり、三島邸の人々も、次第にその若者に同情し、三島に会うように勧め始めた。
三島は、仕方なく外出前に少しだけ時間を取り、その少年に会うことにするのだが、応接間に上がり込んだ若者はただただ黙っているので、業を煮やした三島が、
「質問はないのか」
と尋ねると、
「あります」
と若者がやっと口を開いた。
「1番聞きたいことを一つだけきいたらどうだ」
と言った三島に対し、暫く沈黙していた若者は、突然、
「1番ききたいことはね、……先生はいつ死ぬんですか」
と言った、というものである。
三島由紀夫はそのことを『独楽』という作品のなかで、
「この質問は私の肺腑を刺した。
私が何か滑稽なしどろもどろの返答をしたことは言うまででもない。
時間が来たので、私は少年を促して帰らせ、自分は約束の外出先へいそいだ。
うららかな春の日で、その日も何事もなくすぎた。
しかし、少年の質問の矢は私に刺さったままで、やがて傷口が化膿した」
と書いている。
「本当のこと」を、つまり「王様は裸だ」というようなことを、若者に言われ、さらにそこに重大な真実があることを直感した三島は愕然としたようである。
そこから、三島由紀夫は、実行の伴わないことばは不毛であると考え始め、それまで作品のなかでいくら死の決意を披露しても安泰な世界は崩れ去ったと考え始めたのではないだろうか。
三島の「死の美学」をそのまま現実の生活次元のこととして、素直に理解し、三島に
「いつ死ぬんですか」と問いかけ、作品のなかの三島発言の責任を追及したのは、文学や芸術を知りすぎても、知ったかぶりもしていない若者だったのである。
三島は、「あるとき」から、「責任」を問われることのない文人としての発言、たとえば、作品のなかだけの理論である「死の美学」のような、文人の「嘘」と「無責任」に我慢ならなくなったのだろう。
そして、「言行不一致」が堂々とまかり通る、文人三島由紀夫も含めた戦後の知識人や文化人の生き方あらためて知ったのだろう。
否応なく、行動という問題が三島の裡で浮上してくるのたが、そのきっかけを作ったであろう若者は、その頃、三島が頻繁に登場していた『平凡パンチ』などの青少年向け週刊誌の読者なのかもしれない。
その若者の質問は、三島の「臓腑を刺し」たのだが、三島は、少年や成年といものは、「独楽」のようなもので、終始回転しており、驚くほど頭脳明晰であり、無意識のうちに真実を見通してしまっているものだ、自分もかつてそうだったという。
つまり、少年の質問は、三島の弱点を鋭く見抜き、そこを一言で言い当てたのであろう。
「あるとき」あたりから、三島の文学や芸術への批判が激しくなり、さらに、それは、三島自身の生活や生き方にも反映され、次第に三島は、「実行」に憧れるようになっていったようである。
三島が辿り着いたのは、「嘘」と「無責任」の上に築かれた「死の美学」ではなく、つねに「真実」と「責任」が問われる「死の哲学」であったのだろう。
三島は、実行や行動ということばに固執し、「死の美学」から「死の実践哲学」に移行していたようであり、「平凡パンチOH」に連載していた『行動学入門』の冒頭のなかで、
「行動というものはそれ自体の独特の論理を持っている。
したがって、行動は一度始まり出すと、その論理が終わるまで止むことがない。
これはあたかもぜんまいを巻ききったおもちゃが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ運動を繰り返すのに似ている。
知識人にとっては、行動のこのような論理がこわいのである」
と書いているが、これを書いたころの三島の裡で、着実に「ぜんまい」は回り始めており、ねじが切れるか、ぜんまいが壊れるまで、動き続けるようになっていたのかもしれない。
ところで、三島は中国の哲学、つまり陽明学を借りて、「死の哲学」と「行動哲学」を説明しようとしたようである。
三島由紀夫は、昭和45年に最後の論文となった「革命哲学としての陽明学」を発表した。
このなかで、三島は、幕府公認の官学であった朱子学が、明治の留学生や大正教養主義、あるいは戦後の知識人にまで脈々と続いているのに対し、日本の革命思想の多くは陽明学の流れにあるとし、さらに、陽明学の流れは乃木希典の死とともに消滅して地下に潜ったが、過激な右翼思想の温床となり、ますます黒い秘教となった、というのである。
つまり、三島によると、陽明学の流れは、地下に潜り、危険な思想とみなされてインテリから嫌われ続けていたが、暗く危険な思想として生き残っており、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典も、いずれも陽明学の思想を受け継いだ人々だったというのだろう。
また、三島は、『革命哲学としての陽明学』のなかで、陽明学について、
「主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによって善悪を超越する哲学であるこの陽明学という危険な思想は、丸山氏のいうところの、まさに逆を行って、権力擁護の朱子学、徂徠学の極限へ向かって進んでいった。
その「良知」とは、単に認識の良知を意味するものではなく、「大虚」に入って創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、武士的な行動原理と思われる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもっとも危険な消息を伝えるものであった」
と書いているのだが、ここでいう「大虚」を「虚無」と読み換えるならば、存在と対立する虚無ではなく、存在を生み出す源泉としての虚無であろう。
それは、一種のニヒリズムかもしれないが、単なるニヒリズムではなく、行動的なニヒリズムであり、能動的なニヒリズムであり、そして、価値を新たに創造するようなニヒリズムであろう。
三島由紀夫は、大塩平八郎の思想を通じて、陽明学の核心に触れようとしており、『革命哲学としての陽明学』のなかでも、
「大塩平八郎が重視したのは、陽明学の中の『帰大虚』の思想であった。
『帰大虚』とは『大虚に帰る』ということであり、大虚説こそは、「良知」に至る「致良知」の必然的な論理的帰結であると、大塩平八郎は主張した。
大虚に帰すべき方々は、真心をつくし、誠をつくし、情欲を一掃するしかない。
心が大虚に帰するときは、『いかなる行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致する』」
とし、人の心は大虚と同じであり、大虚は世界の実在であるとしており、ここから、大塩平八郎の過激な「行動哲学」と「死の哲学」が生まれてくる、と主張している。
三島由紀夫は、
心が、大虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがあり、それが心であり、心が本当には死なないことを知っているならば、この世におそろしいものはひとつもない、と考えていたのかもしれない。
それは、大塩平八郎の
「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」ということばに繫がってゆくのではないだろうか。
さらに、この大塩平八郎のことばは、三島由紀夫の『檄』のなかの、
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」ということばに繫がっていくようにも、私には、思われるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。