むらさきの指輪の行方
「明日予定ある?ヒマなら出かけよう。」
夕食後リビングで本を読んでいると、ジン兄が声をかけてきた。
ここは母の姉である伯母の家。
母と伯母は5人兄妹の中でも仲が良く、長期休暇には母とふたりで帰省し、伯母の家でお世話になることが多かった。
従兄弟のジン兄ちゃんとゆう姉ちゃんがいて、ふたりとも昔から私を本当の妹みたいに可愛がってくれた。
「いいけど、どこ行くの?」
「友達とめし食べよう。」
当時私は高校生、兄ちゃんは大学生。冬休みを利用し2週間ほど滞在させてもらっていた。ゆう姉ちゃんは留学中のため不在だった。
土地に馴染みがない私を気遣い、いろんなところに連れ出してくれた。自分の友達との約束にも「オレの妹」と連れていき、友達も楽しいひとばかりで、気兼ねなく遊んでくれる。
「うん。誰と?ヒナタくんたち?」
ヒナタくんは大親友で、兄ちゃんがいない日もふらりと遊びにきては勝手にダラダラ過ごし、夕飯まで食べていくような面白いひとだ。
「いや、まあ明日。○時に(マンションの)下に降りてきて。○時だから遅れんなよ。」
いつになく何度も念を押すと、じゃあおやすみ、と部屋に戻っていった。
◇ ◇ ◇
翌日言われた時間に待ち合わせ場所に行くと、すでにジン兄は車で待機していた。
30分ほど走っただろうか、住宅街の一角で停めするりと運転席から降りると、後部座席のドアを開けて、誰かに乗るよう促している。
助手席の私は振り返るように見やる。ちょうど乗り込もうとかがみこむ相手と目があった。
「……ミズちゃんだよね?初めまして。」
私はぽかんと口を開けていたかもしれない。
少し照れたように微笑えむ彼女。
それが、まひろさんだった。
兄ちゃんは彼女を「友達」と紹介したけれど、ふたりの空気感が分からないほど子供じゃない。私に驚かない様子から同席することは伝えてあったようで、内心ほっとする。
それにしても。
ジン兄は一体どういうつもりなのか。
今まで友達や後輩に会うことは数あれど、女性は初めてだった。しかも彼女!(推定)
何故わざわざ私を、せっかくのデートに同伴?ふたりのお邪魔をしてるみたいで、めっちゃ気まずいんですけど……。
そうは言っても、私には土地勘もなければ帰る術もない。
かくして、この3人での不思議な時間がスタートしたのだ。
◇ ◇ ◇
夕暮れの海沿いをドライブし、暗くなった頃に洒落たレストランに入る。あのパスタまた頼もうか、なんて会話から初来店でないことが伺えて、なんだか少し面白くない。
まひろさんは、切れ長の目が美しいふんわりとした空気を纏うひとだった。
色白のまあるい顔、膝丈のバルーンスカートに首もとに巻いたスカーフ。高校生の私のまわりにはいない、大人の女性に見えた。
おっとり優しい声で話すのが印象的で、小さく鈴の鳴るように笑う。
口数は少ないけど、私が居心地悪くないよう気を配ってくれているのが端々に感じられる。
いつからつき合っているの、とか
どっちから告白したの、とか。
恋バナ好きでいつもなら弾丸で聞きまくる癖に、何故かこの時は言い出せなかった。
そして兄ちゃんもベラベラ話すタイプでないので、少しぎこちないような、それでも好き同士の醸す柔らかい空気を感じつつ、食事の時間はゆっくりと過ぎていった。
◇ ◇ ◇
レストランを出て、兄ちゃんが駐車場に車をとりに行っている間、まひろさんとふたりきりになった。
星空の下しんしんと凍える空気に、寒いねー、寒いですねーと、お互い白い息を吐く。
薄手のコートで身をすくませる姿は、守ってあげたくなるような儚さと淡い色気があった。
寒さで胸もとで握りしめた彼女の手に、目が吸い寄せられる。
白く華奢な指に、アンティーク調の指輪。
むらさき色の大きな石で、暗く鈍く光るその存在感が、ひどく魅力的に見えた。
「兄ちゃんのどこを好きになったんですか?」
まひろさんの驚いた表情を見て、それが自分の口からこぼれた言葉だと知る。
彼女がなんと答えたかは忘れてしまったのだけれど、ひとつひとつ言葉を紡ぐよう語ってくれた様子を、今でもよく覚えている。
◇ ◇ ◇
車内には、あたたかい暗闇とカーラジオから流れるビートルズ、たまに交わされるふたりの会話が漂っていた。
後部座席のとなりに座る彼女と、ふいに目が合う。
「よかったらこれ、ミズちゃん使ってくれる?」
そう言いながらすうっと指輪を外すと、私に渡そうとする。どうやら私は、無意識にずっと彼女の指輪を見つめていたらしい。
もの欲しそうに見えたのかと一気に顔が熱くなる。大丈夫です!とドギマギする私の手を、彼女が指輪ごとふわりと包み込んだ。
「いいの。今日の記念に持ってて欲しいの。」
薄暗く、表情はよく見えなかった。でも優しくどこか切ないその声色に、抵抗しきれずそれを受け取った。
彼女の家近くに着き、兄ちゃんと私も一旦降りて、今日のお礼を伝えた。
「また会いましょうね。」
その言葉に、私はちゃんと笑顔で返せていただろうか。
兄ちゃんと私だけになった車内。でも彼女の余韻は色濃く残っていて、当分消えそうにない。
「きれいなひとだね。」
そう伝えてみると、
「見た目だけじゃなく、ね。」
冗談とも真面目ともつかない顔で返すので、軽く吹いてしまった。
しばらくして、
「今日まひろに会ったこと誰にも言うなよ。」
「なんで?」
「いいから。誰にも言うな。」
横顔からそれ以上聞けない空気を感じ、私は頭の中を飛び交う「?」と手の平の指輪を持てあまし、口をつぐんだ。
◇ ◇ ◇
その後もジン兄は気まぐれによく遊んでくれたけど、お互いまひろさんの話題を出すことはなかった。
冬休みも終わりが近づき、伯母宅から戻って荷物を整理していると、ふいにあの指輪がコロンと出てきた。
むらさき色の大きな石。
ふわりと揺れるスカート
静かに微笑む口もと
彼女はどうして、私にこれをくれたのかな?
優しい、いいひとだった。
でも。
でも?
なんだろう。
胸に灰色のもやが渦巻くような、それ以上はなんだか考えたくない。
目を逸らすように、指輪をケースに入れふたを閉じる。そして、それを引き出し奥深くにしまいこんだ。
奥の、奥のほうに。
◇ ◇ ◇
それから数年間、私は受験や大学での新生活で慌ただしく、帰省することはなかった。
だからその後の話は、ほとんどが母を通じて知り得た事実だ。(母はちょこちょこ帰省したので、その度に小耳に挟んだ)
兄ちゃんに恋人がいること。(まひろさんだ)
伯母がふたりの結婚に大反対なこと。
説得しようと何年か待ち続け、それでも平行線で、最後に兄ちゃんが振り絞るような想いを綴った長い長い手紙を伯母に送ったこと。
それでも許しを得られず、ふたりはお互いの未来を思いやり、泣く泣く別れたこと。
「……別れたの!?」
思わず大きい声が出る。
「あぁびっくりした!どうしたの。」
「だって別れたって……本当に?」
実は前にまひろさんに会ったことあるんだ、と、この時初めて打ち明け、今度は母が驚いた。交際を反対されていたこともあり、ゆう姉ちゃんすら会ったことがないようだった。
「姉さん(伯母)がどうにもならなくてね。ジンは真面目だから振り切れなかったんだろうね、可哀想に。」
伯母からジン兄の手紙を見せられた母は、その想いに打たれ、ふたりを認めるよう説得を試みたそうだ。しかし、伯母は揺るがなかった。
読まなくたって、分かる。
どれほど切実な想いが綴ってあったか。
あの日まひろさんを見る眼差し。声。やっと見つけた大切な宝石を慈しむような。
なんで別れてしまったの。
今まで傍観者だったくせに、いや、傍観すらしていなかった私に何が言えるだろう。
それでも戸惑うほど衝撃は大きく、キシキシと内側を刺し続けた。
◇ ◇ ◇
兄ちゃんはといえば、伯母の勧めでお見合いを重ねては、のらりくらりと断ってるらしかった。
今どきドラマですら見かけないような展開。
私だったら家を飛び出してたかもしれない。
兄ちゃんは大丈夫だろうか。
もしや一生独身を貫くつもりなのでは。
そんな予想を超えて「結婚が決まったらしい」という報せが届いたのは、別れ話を知って1年を過ぎた頃だった。
◇ ◇ ◇
「なにしてんの、電気もつけないで。」
数年ぶりの伯母宅での夜。
リビングでぼんやりソファにもたれていると、ジン兄が通りがかった。
「いいの。この感じが好きなんだもん。」
窓が大きく、たっぷり月明かりがはいる。寝つけない夜はこうやってよく過ごした。
「なんか飲むか?」
冷蔵庫から缶ジュースをふたつ取り出し、片方私に渡すととなりに座る。ビールじゃないのが兄ちゃんらしい。
そういえば、ふたりきりは久しぶりだな。
3日後には結婚式。母と前ノリで帰省したけれど、明日には父も来るので、母と私も父がとったホテルに移る予定になっている。
「結婚するって、どんな感じ?」
「別に。でもいろいろ忙しいな。」
昼の食事会で、お相手と初めてご挨拶をした。理知的な雰囲気の女性。このひとがジン兄の奥さんになるのか。ニコニコな伯母を見ていると複雑な気持ちになった。
兄ちゃんの横顔を見つめながら、聞くなら今しかない、と思った。
「まひろさんじゃなくていいの?」
兄ちゃんは、ただ静かに聞いている。
「後悔しない?それとも今の彼女のほうがもっと好き?」
親の意を汲み結婚するなんて、無理してるんじゃないか。本当にそれでいいの?しあわせになれるの?抑えていたものが堰を切って溢れる。
「……ちょっと待っててな。」
低い声でそう言うと、どこからかノートとペンを手に戻ってきた。
白い紙に、横一本に長く線を引く。
その直線のまん中あたりに点をつけると、そこから左に向かってぎゅーっと矢印を書いた。
「これが、まひろへの気持ち。」
今度はまん中の点から、右側に向けて矢印。
ぎゅぎゅっ。
「こっちが、結婚する彼女への気持ち。」
どっちも本当で、だけど違うベクトルなんだ。だから比べて辛くなったりはしないし、しあわせだよ。
そう言うジン兄の表情は月のように穏やかで、ここに辿りつくまで兄ちゃんが越えてきたものを想えば、私が泣きそうだった。
「そっか、分かった。」
そう返すのが精いっぱいで、膝を抱えたままジュースの残りを流し込む。
ぶどうの濃さが喉にからまり、堪らずむせた。
◇ ◇ ◇
あれからまた長い年月が過ぎた。
兄ちゃんの仕事は海外赴任が多く、あちこちを家族で飛び回っているらしい。今では年賀状で近況を知る程度だ。
兄ちゃんと奥さんに挟まれ笑顔で写る長男は賢そうな瞳で、もうあの頃の私の年に近い。
しまいこんだ指輪は、探しても何故かどこにも見当たらなかった。
ふと、思うんだ。
あの石は私のこころの中で溶けて、その残った小さなかけらたちが、忘れないでと時おり鈍く光るんじゃないかと。
ばらけた過去のかけらを集めこうやって眺めることに、いったいなんの意味があるのか。
分からない。
でもあの日、もしかしたらふたりは私に、味方になって欲しかったんじゃないか。
ちっぽけな私に、伯母の強固さを和らげる力は微塵もなかったけれど。それでも。
ばかげた空想だと分かってる。
でも、あの海辺のレストランに行ってみれば、今でも3人の夕食の時間がゆっくりと流れている気がして仕方ないんだ。
それぐらいの魔法があったっていい。
そうでしょ?
こころのかけらたちに呟く。
食事のあとは私が「予行演習!」とひやかして、彼女の指に指輪をはめる儀式をしよう。
照れる兄ちゃんを急き立て、そう、場所はエントランスのあの踊り場がいい。
頬を染めて見つめあうふたり。
やっぱりむらさきの指輪は、まひろさんの指によく馴染む。
そして今度こそ、私は笑顔でこう叫ぶんだ。
「よっ、お似合いだね、おふたりさん!」
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