富山県富山市 日枝神社
境内散策
富山駅からまっすぐ伸びる道を南下すること2kmほどでしょうか。
山王町の名が付く交差点が目に入ります。
それをサイン代わりに左折すると、日枝神社の鳥居が見つかりました。
見事な鳥居から続く参道の先には手水舎があります。
手水を済ませ右に折れると、そこに大きな社殿が目の前に鎮座していました。
柱や梁を朱に塗られた立派な社殿は、近づくにつれ存在感を増し、改めて地域の方々から崇敬されていることが感じられます。
それもそのはずで、加賀藩の二代目藩主、前田利長は境内地を寄進し、日枝神社の社殿を造営され、富山の総産土神として篤く崇敬されたと伝わります。
御祭神
参拝に上がるにあたって事前に公式サイトを見たところ、御祭神には大山咋神、大己貴神、天照皇大御神、豊受大御神の四柱の神様が祀られていることが分かりました。
これを見たときに、「おや??」と思ったことがありました。
というのも、御祭神の四柱のうち大山咋神、大己貴神は国津神。天照皇大御神、豊受大御神は天津神で、グループが違う神様です。
古事記や日本書紀など、神様の相関図を目にしたことがある方ならピンとくるかも知れませんが、グループの垣根を越えてひとつの神社の御祭神に御鎮まりになっているのは、なにか理由があるのかなと思ったのでした。
歴史
現在地に鎮座するようになったのは加賀藩二代目藩主の前田利長の時代とされています。察するに、関ヶ原の戦いの前後にはこちらに鎮座していたのではないでしょうか。
しかし、どうやらその前から日枝神社には歴史があるようです。
境内の御由緒によると、もともとは新川郡針原郷大野に鎮座していたそうですが、建武二年(1335年)に戦で焼かれ、大山町隠土に避がれます。
貞治六年(1367年)以後には今の富山城址付近に遷座され、織田信長に仕えた佐々成政(さっさなりまさ)が城の守り神として祀ったそうです。
さらに興味深いのは、御由緒では御祭神についても触れているところです。
個人的に知識が乏しいため、「旧藩」が何で、いつの時代を指しているのかは分かりません。
しかし、やはりもともと日枝神社とは別に祀られていた天照大神、豊受大神の二柱を明治時代に入って一緒に祀ることになったというのが、国津神、天津神というグループの垣根を超えて御祭神となった経緯のようです。
境内社
拝殿のすぐ脇には春日社、稲荷社、水天宮を祀る境内社が鎮座します。
境内社の手前には、安産を願う安産犬の像も置かれていました。
また日枝神社の社殿を背に進むと、同じく境内社の麄香(あらか)神社が現れます。
麄香神社とは珍しい名前の神社ですが、手置帆負神(たおきほういのかみ)、彦狭知神(ひこさしりのかみ)がお祀りされており、工匠、商業の守り神として崇敬されているそうです。
参道の両脇には十二支の石像が並びます。
よく見ると、これから仲間入りを待つ十二支もいるようで、奉賛金を募っていました。年を追うごとに、一体ずつ揃っていくのは楽しみですね。
御朱印
今回お受けした御朱印はこちらです。
御朱印帳に直接書いていただきました。
黄色い印は社紋で、桜ではないかと思いますが、どうでしょう。
まとめ
加賀藩二代目藩主、前田利長によって造営され、富山の総産土神として崇敬された。
明治時代に入り、国津神と天津神が共に祀られるようになった。
大きな拝殿はもちろん、安産犬の像や麄香神社など見どころも多い。
基本情報
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?