「ポケットモンスター 結晶塔の帝王エンテイ」-親子の絆と隠されたもう1つの絆-
6月7日に最新話の放送が再開したアニメ「ポケットモンスター」。
1997年から放送が開始された人気ゲームのアニメ化作品で、翌年の1998年からは毎年映画化されている人気シリーズで、自分もダイヤモンド・パール編までは毎回見ていました。推しヒロインはハルカです。
そんな自分が今回取り上げさせて頂くのは、2000年に公開されたシリーズ第3作「ポケットモンスター 結晶塔の帝王」です。前年の「ルギア爆誕」から興行収入こそやや落ちたものの、本作も前年に続いて邦画興行収入ランキングで1位を獲得する大ヒットを獲得し、この頃から「ポケモン映画」というジャンルが夏の風物詩として本格的にスタンダード化してきた気がします。
また、本作はシリーズ第1作「ミュウツーの逆襲」から脚本を務めてきた首藤剛志さんが生前最後に担当した作品であり、この映画とは全く異なる、「ポケモン映画第3作」の構想がなかなか具体的な段階まで進んでいたことは有名ですよね。
そんなポケモン映画を定番イベントとして根付かせたであろう「結晶塔の帝王 エンテイ」について、自分が見て思った事を色々と感想としてまとめていきたいと思います。
この映画の「帝王」と、何となく影が薄い元凶
まずはこの映画でメインとなる舞台や設定について解説します。
今回舞台になるのはジョウト地方にある「グリーンフィールド」という地域です。作中で女の子が行きたい地域第一位に選ばれるなど、その景色の美しさで有名とされていますが、本作ではその景色もよく見せないまま後述する結晶塔がそびえ立ちグリーンフィールドを侵食していくので、この地域の美しさを本当に知れるのはエンディングまで待たないといけません。
そして、グリーンフィールドを侵食していくという「結晶塔」が本作の本当の舞台となります。美しくもあり異様でもある見た目、そして次々と人々に親しまれた景色を結晶化してしまうという末恐ろしい特性を持っています。ちょっとだけ「デイ・アフター・トゥモロー」や「ジオストーム」を連想させるような特性ですね。これが一人の少女の心によって作られたと考えると心配な気分になります。
本作はグリーンフィールドの自然な美しさと結晶塔の不自然な美しさ、この2つの対比がとても面白いですね。また、後述する現実の世界と夢の世界との対比という意味でも、この舞台設定は秀逸だと思います。ポケモン映画は毎回、物語を生かすための舞台設定が練られていますが、今回も安定した力を発揮していると思います。
続いてはキャラクターについてです。
まず何と言っても欠かせないのは本作のメインポケモン「エンテイ」です。
といっても、本作に登場するエンテイは少女の心によって生み出された幻の存在であり、本物のポケモンではありません。しかし、その戦闘力や存在感はまさに伝説級であり、サトシたちに立ちはだかる強大な力として本作に君臨しています。そして本作の重要なテーマである「親と子の絆」という観点からも、「父親」として大きく関係している最重要キャラです。演じているのはNHK大河ドラマ「秀吉」の主演等で知られる有名俳優の竹中直人さん。声優としては「アベンジャーズ」シリーズのニック・フューリー役としてもご活躍されています。
続いては本作の一番の元凶ともいえる謎多きポケモン「アンノーン」。
「人間の意思や願いを読み取り、それを実際に叶えてしまう」という、神龍や涼宮ハルヒも驚きの公式チート能力を持っています。本作に登場する結晶塔やエンテイも全てアンノーンにより生み出されたものであり、その能力や実態は未だ多くの謎に包まれている、まさに「未知(Unknown)」のモンスターです。
アンノーンはこの映画におけるサトシたちの真の敵であり、彼らに大きな悪気は無いと思われますが、最終的に暴走して自分の能力を止められなくなったアンノーンとサトシたちとの対決となります。またアンノーンのデザインは本作ではCGを使用していますが、2000年公開の映画と考えるとかなり進んだ技術だなと個人的に感じました。見事です。
そして人間のゲストキャラ。序盤のバトル要員かつサトシ一行にポケギアを貸してくれた女子とか見た目がジョンっぽくないのにジョンという名前の男とかもいますが、メインキャラとしてがっつり登場するのは、エンテイの欄でも触れた少女・ミーだけと考えて頂ければ大丈夫です。
彼女は考古学者のシュリー博士を父に持つ5歳の少女で、かなり立派なお屋敷に住んでいたり山寺宏一さんの声を持つ執事さんがいたりと、お金持ちのお嬢様でありながらも子供らしい純粋な心を持つ女の子です。演じているのは「クレヨンしんちゃん」の初代・しんのすけ役でお馴染みの矢島晶子さんです。本作では彼女の願望によって登場する10歳のミーと18歳のミーも彼女が一緒に演じており、その演技の幅広さは圧巻です。
本作での彼女は、ただでさえ大好きなシュリー博士の多忙により寂しい思いをすることが多いにもかかわらず、本作冒頭で父親が謎のアンノーン世界に引きずり込まれて行方不明という悲劇に見舞われ、それがきっかけで寂しさが加速、アンノーンを引き寄せてしまいます。しかしアンノーンがミーの意思を汲み取って例の結晶塔を作ったとなると、彼女の心の闇はなかなか深そうですが…
総じて言うと、本作のゲストキャラは普通じゃとても太刀打ちできないほどのチート能力を持ってるキャラばかりです。しかもその根源が5歳の少女なので事態はかなりデリケートな感じになっています。ぶっちゃけこれに関しては少しズルいような気がします。何でもありの能力が相手だとどんなフォローがあろうと少し冷めてしまうというのが正直な感想なんですよね。事実サトシたちは終盤までけっこう一方的にボコられていますし。まあ、それは他のポケモン映画でもわりかし見られる事なのである程度は仕方のないことですが(笑)
伏線が丁寧に描かれた冒頭
続いて本作のストーリーについてですが、自分が特に素晴らしいと感じたのは、サトシたちが登場するまでの冒頭シーンでその後の展開に必要な伏線やファクターを、不自然さ無く登場させている点です。
最初のシーン、ミーがシュリー博士と遊ぶシーンで「①ミーが愛読している幻想的な絵本」や「②ポケモン型の遊具」、「③エンテイの真似をするシュリー博士」や「④ビデオメッセージが送れるパソコン」が既にしっかり登場しています。
このシーンはミーとシュリー博士との父子の絆を示す役割だけではなく、「①ミーの心情とそれに伴うアンノーンの現実反映」、「②ミーのポケモンへの愛情とポケモンバトルへの憧れ」、「③シュリー博士がエンテイになって帰ってきたというミーの思い込みの伏線」、「④外の世界と結晶塔を映像で繋ぐ道具」を、不自然な点も無くしっかりと描写している、とても重要なシーンだと言えます。
シュリー博士が優秀な考古学者という設定も上手いですね。アンノーンとの繋がりを持たせる設定というのは勿論ですが、彼の行方不明で同業者のオーキド博士が現場にやって来るという展開を強化することに成功しており、やや強引なところはありますが、本作の重要な登場人物であるサトシママが現場に登場するという展開もこの設定のおかげで実現しています。
ただママが攫われるまでの展開はちょっと気になりました。テレビ局の中継映像でサトシとママが映ったことでミーはママの存在を熱望するのですが、なんでもない一般市民のサトシとママをテレビ局が撮影しているのがどうしても不自然に感じましたし、ミーの部屋に2人が映ってる写真があるんだからそっちを使えばいいのにと思いました。テレビ局スタッフの存在自体はこの後登場するリザードンの参戦に絶対不可欠な要素なので、ここはちょっと惜しかったですね。
その後の結晶塔突入シーンはサトシたちの手持ちポケモンを上手く活躍させていて、とても楽しめる出来になっていました。
そして本作の一つの見せ場であるタケシとミー、カスミとミーのポケモンバトルシーン、ここは見事でしたね。基本的にサトシの活躍が目立ちすぎて他のキャラが置いてけぼりを食らうのはポケモン映画によく見られる事ですが、ここでガチガチのポケモンバトルを2人にやらせる事でしっかりと活躍させているのはとても良いと思います。ただ、先述した通りアンノーンの能力がチート過ぎてタケシのイワークがゴマゾウのころがる攻撃で一瞬で戦闘不能になるなど、現実味があまりない展開になっていましたが…
そして何と言っても欠かせない「サトシのリザードン」の参戦。
参戦までの流れはやや唐突ではありますがテレビ中継という伏線をしっかり生かしていますし、何より来てくれるだけでファンの胸を熱くするほどの魅力と実力を兼ね備えた彼の登場で、映画自体の盛り上がりも最高潮に達していると思います。アニメ版で苦手だったサトシを乗せての飛行もしっかりとこなしている辺りが成長を感じさせて感動しますね。
何より今までエンテイたちの圧倒的な力の前にやられてきたサトシたちの希望の存在でもあり、たとえ離れていてもピンチの時に助けてくれる「現実世界の仲間」の象徴としてもリザードンは大きな役割を持っているキャラだと感じました。
ミーもいずれ現実世界へ旅立つ時が来る
この記事の中でも何回か登場しているように、本作のテーマの一つに「夢の世界から現実の世界へ歩き出すこと」が挙げられます。
リザードンの登場以降、特にこのテーマは強調されており何と結晶塔に潜入していたロケット団までもが「長い付き合いだから」という理由でサトシを手助けするシーンも描かれています。「ルギア爆誕」の時ほど目立ってはいませんが、やっぱりこういうシーンは良いですね。「水の都の護神」以降、映画でサトシたちと絡むことも少なくなってしまったのが残念です。
そしてロケット団が出てきてからは「現実世界で様々な仲間たちと生きるサトシたち」と「夢の世界で幻に囲まれて暮らすミー」との対比が如実に明らかになっていきますね。カスミたちとのバトルに登場したポケモンを再び創造して「友達」だとミーが言い張る場面がその代表格と言えます。
しかし、やがてミーもサトシたちの想いに触れ「外の世界」=「現実の世界」への希望を示すようになります。ここでの「エンテイとリザードンの対決」と「ミーの心の葛藤」を同時に描くという試み自体は良いと思いますが、途中までエンテイの足場として登場した結晶の柱が後半明らかにリザードンを妨害するために登場したのはどういうことなんでしょうか?ミーが葛藤しているように見せてリザードンへの敵意むき出しだったのか、はたまたアンノーンが暴走していたのか…
何はともあれ、このシーンで遂に結晶塔の外へ出る事を決意したミー。
このシーンだけ見ると、「夢の世界で現実逃避することをやめ、外の世界で大人になっていく」という、まるでどこかのミルドラースが言っていそうなメッセージに見えますが、最終盤の展開で話はそう単純じゃないことが分かります。
父と子、そして幻の世界との絆
知っての通り、本作に登場するエンテイはミーが作り上げた幻の存在であり、現実のポケモンではありません。それでも、ミーとエンテイは互いを本当の親子だとして信じて疑わず、エンテイも「ミーのためならどんな事でもできる、ミーは何にでもなれる」と、本物の父親であるシュリー博士にも負けないほどの親心を発揮しています。
しかしエンテイが存在し続ける限り、ミーはシュリー博士と会う事は出来ないままであり、現実の世界でポケモンバトルをするような仲間とも出会うことも叶いません。それを悟ったエンテイは最終盤、「ミーを外の世界に連れて行く」という最後の願いを叶えるために奔走し、自身の力を制御できなくなり外の世界への最後の壁となってしまったアンノーンと対峙することになるのです。
そもそも何故一番の原因であるアンノーンを今まで放置していたのかという疑問はありますが、そのアンノーンは強力なバリアを周囲に張っており、ピカチュウやリザードンでも対抗できないほどの強さを持っています。今まで最強の存在として君臨してきたエンテイも、そう簡単には突破できません。
この状況を打破する決定打となったのは、ミーとエンテイの「互いを信じる親子の絆」でした。ミーがエンテイを信じれば信じるほど、彼はどんな状況にも立ち向かえる強い存在となることができる… アンノーンのチート能力を逆手に取った手段でもあり、何よりこの2人の間には、幻ではあったものの限りなく本物に近い「親子の絆」があったことを証明するシーンでもありました。エンテイの隣でピカチュウとリザードンが攻撃を止めていないのがこのシーンの趣旨をブレさせていて何とも惜しいところではありますが。
また、この物語は「夢の世界で現実逃避することをやめ、外の世界で大人になっていく」という事を描いたのではなく、「夢の世界からも大切なことは学ぶことはでき、そしてそれを外の世界に旅立ってもずっと忘れない」ということを描いていたのではないでしょうか。
自分たち観客の立場から見れば、そもそも「ポケモンの世界」そのものが夢の世界であり、この映画をはじめ、世界中の人々がポケモンの世界に親しみを覚え、生活の一部として大事に思っていること自体がこのメッセージを強調しているとも言えます。そしてそのメッセージを、夢の世界そのものであるポケモン映画の世界で表現したのは、偶然ではないと思います。
最後にエンテイは「消える」という表現は使わず、「お前の夢に帰る」という言葉を使いました。彼は帰っただけで、確かにまだどこかに存在しているのです。自分もポケモンという文化から離れてだいぶ経ちましたが、確かにポケモンの思い出は自分の中にあり生き続けています。そして、たとえいつか離れ離れになってしまっても、一緒にいた大切な時間は忘れないというのは、親子の絆とも重なる部分があるような気がします。
このミーとエンテイの関係は「親と子としての絆」と「夢の世界と現実の人間の絆」、2種類の異なる絆をキャラクターとして綺麗に落とし込んでおり、そしてそれは本作を視聴した全ての人々にも当てはまるメッセージとし
ても、非常に高い共感を得た関係と言えるでしょう。
こちらは、映画「ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」。
「親子の絆」と「夢の世界との絆」を描いた作品としてオススメしたい作品です。
ミーの母親をめぐるエトセトラ
最後に、「親と子の関係」を描く上で本作は小さな矛盾を抱えているという事が指摘されています。有名な話ではありますが一応記述しておきます。
本作のエンドロールで、ミーはシュリー博士に連れられた一人の女性と会っています。この女性の正体については作中で明言はされていませんが、ここまでの展開を考えれば「ミーの母親」と考えるのが自然です。
この映画の中で「ミーの母親」に関する描写はこのシーンを除くと極端に少なく、生きているかどうかも分からない事態がラストまで続いていました。それ故に、このラストの対面のシーンは一見感動的に見えます。
しかし、「ミーの母親」が生きているとなると何故劇中でミーはこの母親について言及しなかったんでしょうか?
一部の書籍によると「ミーの母親」は病気で療養していると説明されていますが、それならミーは「サトシのママを欲しがる」のではなく「本当の母親の病気を治す」という願いを持つ方が自然なはずです。しかしミーはそれをせずに結局ラストであの女性と会っています。
あの女性が「ミーの母親」ではないという説もあります。それならば作中でのミーの行動に矛盾はなくなりますし、最後に出会った女性も「シュリー博士の恋人 or 後妻」と推定することができます。まあ、それにしてはミーがこの女性とあまりに仲良くし過ぎな気はしますけどね。(笑)
ただ、この矛盾が生まれてしまっているのは脚本製作時の行き違いに原因がある事が明らかになっています。
脚本を最初担当していた首藤剛志さんは当初、ミーの母親は病気で亡くなったという設定にして本作を製作していました。しかし病気により半ばで脚本を、こちらもポケモン映画を多く担当している園田英樹さんにバトンタッチした際に、親子の絆をテーマにした子供向け映画で母親が既に亡くなっているのはどうなのかという疑問から「母親は病気で療養しており、ラストでミーと再会させる」という設定を追加したということです。その為、首藤さんは映画のラストに出現した女性にはかなり驚いたらしく、色々と考えた結果「あの女性が誰なのかは明言しない」という手段を取ったそうです。
このような曖昧な表現をしたポケモン映画は「水の都の護神」が有名です。ラストでサトシにキスをしたのがラティアスかカノンかは未だに意見が分かれるところになっていますよね。
全てのポケモンファンに見てほしい映画
とはいえ、このような矛盾を乗り越えるほどのワクワクと感動が詰まっているのが「結晶塔の帝王 エンテイ」という映画です。
先述したように「夢の世界と現実の人間との絆」というポケモンという文化そのものに通じるテーマを描いている以上、まだこの映画を見ていないポケモンファンが万が一いましたら、是非とも見て頂きたいです!
また、本作以外にもエンテイが登場する作品として、ダイヤモンド&パール編の映画「幻影の覇者 ゾロアーク」もオススメです。金銀編の三大伝説ポケモンであるライコウ、スイクンとの豪華共演もあるので宜しければ是非。
今回も大変な長文となってしまいましたが、最後まで見て頂きありがとうございます。
トモロー
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