満ちてゆく 〜手放せない私の目に映るもの〜
紅白歌合戦で藤井風が「満ちてゆく」を歌うと知って、私は内心ガッツポーズで喜んだ。「優しさ」と「満ちてゆく」の2曲が私にとってのベストソングなのである。
撮影の技術的な面などでも話題になった今回の紅白での演奏。NYからとか言いながら、またホールに登場、みたいな展開を思ったのは私だけではあるまい。よって、リアタイでは ちょっと落ち着いて観られなかった、不覚。。。ホールのステージに出てくるんじゃなーい?って思ってしまったのだ。
ここ数年の私は、不本意な別れや、あるいは思っていたよりもずっと早い友人の旅立ちに動揺したのに、相変わらずボーッとした暮らしぶりだし、生活空間も雑多で呆れる。夫は自営業で多くはないが社員の生活も背負っている(私は結婚前から就いている仕事をやめずにいる。)ので、万が一のことがあったら、などと思うことも時にある。
このnoteを始めたきっかけは「許せない」ものを、それはそれは大きく、重いものを抱えていたことだ。うっかり口にできない思いを別の形に変えて書き始めた。最近はその頃のことを書くことはもうない。でも、その後も小さいながらも「許すべからざる」何かを胸の内には持っていた。「許せない」「こうあるべき」という思いがもはやアイデンティティの一部だったのである。それを手放すことは、私が私ではなくなるに等しいことだった。
藤井風が演奏後に言ったー常々言っているー「みなさんが幸せだったらいい」。恥ずかしながら、私は自分のことに精一杯でなかなかそういう思いを抱けない。あんなにイケ散らかしているお兄さんがさらりと言っているというのに。「何もないけどすべて差し出すよ」などと思ったことも恐らくない(恥)
でも、自分の許せないもの、他者やあるいはかつての自分を消してしまいたい思いは 以前とは違い、だんだん霞のように淡くぼやけていっていて 純粋に感謝やありがたさを感じる感受性みたいなものや、自分のダメな点も笑えるようなテキトーささえ生まれ始めた。それはかつての自分が恐怖していたことである。他者を、過去を許すことは、自分の長い月日を否定することだと思っていたからだ。ところが、いざ新しい思いに出会ったとき、不思議なことに、だんだん目の前が柔らかい光で満ちてゆくのである。
藤井風の楽曲から伝わる「赦し」に改めて これから「どう生きようか」と思う年末年始だ。