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自分を愛するために~今いる次元を離れる~

 本を読むのが好きだ。本の中の言葉は熟成期間を置いた後に形にしたものが多いからか、安心感をもって読めるような気がする。熟考された末の言葉、思いやりや教養を土台にもつ言葉は、何かを知りたいと思う私を 落ち着いた言葉で導いてくれる。もちろん、本ばかりでなく、noteなどネット上の空間で出会うこともできる。
 
 ネット上の世界は、いろいろな言葉と出会うものだとつくづく思った。上述したような、確かな知識と経験に裏付けられた信頼できると思える言葉に出会うかと思えば、自分の思いを自分で十分に整理することができないまま他者を攻撃するようなものばかりが溢れている空間もあったりする。

 さて、私は今まで「終わりを見届けたい」「自分で決着をつけたい」という思いを比較的強くもっていた方だと思う。納得できないことについて、自分なりに答えを見つけたいという思いが強かったということだ。すぐに答えが出せるわけではないし、自分ではなく、他者から答えを見せていただくことができる場合もあった。

 ところが、最近は「もう最後まで見届ける必要はないかな」と思うことがある。たとえば、人間関係のトラブルが起きた相手だとか、どうしても好きになれない人がいたとして、その人がその後どのような生き方をするかを見届けることができるとすれば、自分自身がその人と同じ世界を生きることになるともいえなくもないわけだ。好きでもないものを自分の世界に置いておく必要はない。

 以前はこのような考え方を「自分の視野を狭めることになるのかな」と思っていた。自分の見たいものだけを見るのではだめだよな、と。だが、人間はどうしたって自分の見たいものを見てしまうものだ。他者の助言や、あるいは自分の身に起こったことから自分のことを振り返り、きちんと反省したりすることができるのであれば、それで十分なのであって、もう見たくないものを無理に自分の世界に置いておく必要はないのではないかなと思った。どんなにがんばったって、人はその人自身が培ってきた世界観で物事を見るものなのだ。ということは、今見ているものも、これまでの経験に影響を受けているものだということもできるし、あるいは、これからの自分の世界を作るともいえる。ということは、いやなものに無理に目を向けていると、それで満ちた世界を、これからの自分が生きることになる。

間違っても、人間が自分の力を行使して、他者を変えようとしたり、人間を裁こうとしてはならない。あとは神のみぞ知る。人間が人間を裁いてはならないから、法が作られたり、(法も人間の作ったシステムだけれど、でも裁くのが人自身ではなく、システムがということになる)あるいは、時に神と呼ぶような存在にゆだねたりするのだ。
ここから先は個人的な感覚だが、神なる存在とは、自分自身が自分の内でつながる存在だと思っている。人ひとりが到底及ばない大きな叡智だったり、真理というものにつながるということ。自分自身でどうしようもないことは、何か大きな真理によって淘汰されたり、導かれたりするだろう。

もし、何もかも自分で解決しようとすると、正義を振りかざしたり、他者を追い詰めたり、自分自身の心身を損ねてしまう。どうしようもない、できることはない、と思ったら、今いる世界から旅立つことだ。それは何も物理的に離れることのみを意味するのではなく、意識のもちようを変えるということでもある。
以下に書くことが「意識のもちようを変える」ことなのだが、それは結局自分自身を愛するということだと思う。
自分自身を脅かすものにおびえる姿勢を見せることなく、自分自身を生きる覚悟を決めるということだ。自分自身がすべきだと思う、大切なことをこつこつ続ける。でも、誰かを攻撃したり、変えようとしたりするのではなく、自分自身の暮らしを大切にすることをする。
また、素敵だと思う言葉、思いやりにあふれる言葉で自分の心を満たす。ネット上の言葉をどう読むか。確固たる経験や実績に裏打ちされた人の言葉をしっかりと読みこむ。未熟な人の身勝手な言いがかりを目にしてしまったときは、もちろん見ないようにするのが一番だが、もし、それに対する落ち着いた言葉がそこにあれば、そこから学ぶこともできる。その、落ち着いた、地に足の着いた言葉を心にとどめる。(そして、思いやりのない人がその後どうなろうと、それはその人の人生だ。その意味では「自分は自分、あの人はあの人」と思えばいい、というか思う方がいいのかもしれない)

自分自身の暮らしを、自分自身が優しい気持ちになれるものを守りながら、さらには自分自身が誰かを傷つけていないか、時に自分の持てるもので、誰かを助けることができるか、そういうことを思いながら他者とつながって生きる。そうすることで、自分自身の時間が自分だけのものではなく、誰かと分かち合え、とても豊かなものになる。そして、自分という存在もさらに愛しく思うことができるようになる。

自分自身がよいと思うものに、時間を、自分の命を捧げよう。それが自分を愛するということ。自分が見たらつらいものは、見ない。そうして自分の優しい空間を築いていくことで、困っている誰かに、真の意味で寄り添うあたたかさを作り出すことができると願いたい。

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