危機感
以前 自分の正義感から 強い口調で 相手を追い詰める光景に出くわした。その時は 私が割って入ろうとする前に 別の人がそっと話に加わった。なにか起きそうな2人のことを、周囲は気にかけていたが、その後 一層気をつけるようになった。攻撃で人を黙らせるやり方を黙認してしまいたくないという思いが共有されていた。ただ、一人だけ「追い詰められる方にも問題はあるから、その人が自分で相手との問題を克服すべき」と主張する人がいて、唖然とした。いじめの黙認と同じではないか。
人間生きていたら 失敗する。すぐに改められる場合と、少し立ち止まって じっくり考える時間が必要な場合がある。そもそも 失敗と言われたことが「失敗ではない」こともある。「待つこと」が必要な時もある。「待っている」ことを その場にいる人が共有する必要がある時もあるのだ。もちろん「待てない」こともある。人の心身が追い詰められている時。
今自分がすべきことが「待つ」なのか「進む」なのか。夏目漱石の『こゝろ』で 若き日の「先生」は この判断を誤って「K」を喪ったではないか。
失ってからでは遅い。傷つけてしまってからでは遅い。自身の主張を通そうとする時、この判断こそがすべてを決める時があると思う。