愛することとは
何でもかんでも「愛が大事」と言う友人に「ついていけない」と思っていたころがある。愛と恋がごっちゃになっていたからだろうか。今でもわかっていないかもしれないけれど。
最近、
これは愛だなあ
といろんなものに感じることが増えてきた。
一度「今日寒いから、あなたが使ってるカイロ、私にも分けて」って いつもカイロを貼らない私が言ったら、その後 毎晩 翌朝の私のためにカイロをテーブルに置いてから眠りにつく夫、とか(前日の晩に必ず置いてくれるから、翌朝「今日は寒くないよ?」という日があるのが、また微笑ましい。)。
職場の汚れのたまりがちなスペースを、丁寧に掃除して きれいにしてくれる人、とか
アーティストの魂の底からの表現、とか
こういうのが愛、だね と思う
エネルギーを注いでいる、そのこと自体に愛が宿っているのを感じるのだ
しかも、その対象にエネルギーを注いでいるだけで、誰かに評価してもらおうって思っていない、それが愛だね と思う
あげたから返して してあげたから誰かが見てくれてるかな
ではない せずにいられなくってしたんだっていう
そういうのが愛だね
と思う
だって 夫も、そのお掃除が上手な人も ただただ、そのことを「きちんとしてるだけ」ってことが見ていてわかるから。
一方で、見返りや周囲の評価を気にしている人はわかってしまう。周囲を意識しているというオーラが出てしまっているのだ。声色にも出てる。それは、一見 愛情表現と変わらないように見えるけれど、「もらいたい」がための行為になってしまっている。
ちょっと前にたまたま耳にした、高校生の会話の中の「うちのお母さんの作ってくれるお弁当はすっごくおいしい」も 愛をもらってるね、と思う。別にお母さんがつくるんじゃなくてもいいんだけど。うちは、夫が晩御飯を作るのが当たり前になってるしなあ。
子どもたちは、外で食べるご飯も美味しいけれど、やっぱり家で食べるのが一番美味しいんだよねえって言う。誰かが注いだエネルギーをダイレクトにいただくことができるからだろうね。おうちのエネルギーも多分いただいてるしね。とはいえ、そんなに何もかも家で作ることはできないから、うちはかなりアウトソーシングしていますが。そして外食もしますし。
外食するにしても、作った人の顔が直接見えるお店は やはり美味しい。エネルギーをダイレクトにもらっているのだから。
愛は エネルギーだと、思っている。それも 奪おうという意図のないエネルギーに宿るものだと思っている。
そういうことを思いながら、人と接する、最近の私。
ダイレクトでの交流で 受け取っているもの、渡しているもの、それは 私たちが思っているよりも ずっとずっと大きいパワーなのだ。
もちろん、情報ネットワークの発達のおかげで、田舎住まいの私でも 買い物が便利にできるから、それも愛を受け取っていると思う。買い物ができるシステムを作ってくれた人たちのエネルギーを受け取っている。
ただし、人と人の交流を考えるとき、ダイレクトでないと得られないものがたくさんある、ということを 今一度思い出してもいいのではないかな、と最近の 社会の様子を見ていて 思わざるをえない。
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