弱さを守ろうとする人として、在ろう〜経験していなくても知ることはできる〜

何年か前のことだったと思うが、職場に周囲の同僚などに、気分次第で 態度がコロコロ変わり、時には強い口調で八つ当たりする人のことを 年配の人に相談したら
「いろんな人がいるのが集団生活だから、我慢しないと」
と言われ、

「なぜ言いたい放題の人ではなく、
言われ放題の人の方が
我慢しなければならないのか。
傷を負った人の心はどうなるのか」

と尋ねても、
「集団生活だから」の一点張りで、失望した。
また、「あなたが言っているその人は、自分に対しては、そういう強い口調で接してこないから、あなたが言っている辛さはあまりわからない」とも。

分からない限りは、困っている人を助けなくてもいいということか。

知人は、パワハラで勇気を出して苦しみを訴えた人が「今さら、そんなことを言うのか、なぜ、その時に意思表示しなかったのに、被害者だと言えるのか」と言われたのを見たことがあると言っていた。

被害者は、
拒否できない状況にまで追い詰められることも含めて、
被害者なのだ。
だからこそ、勇気を出して声を上げた人のことを 
部外者が非難してはならない。
それは、更なるいじめ。


 私は 以前、被害者の気持ちはこうだという、自分の感覚を話して、意外にもその場にいた人に感謝されたことがある。私が感じていたことを代わりに言ってくれた、どうして、そういう人の気持ちがわかって、言葉にできるのか、と。
 私自身が被害者だったからです、とは そのとき言えなかった。ただ、こういうことを他者に向かって、実感を伴った発言ができることは貴重なことかもしれないと気づいた。自分の弱さが面倒だった時期が 長かったけれど、その経験が、未来にもいる「自分」のような人を助けるのなら、過去の自分も、少しは報われる。

辛い思いをしても、もし 立ち直って 余裕が少しできたら、
繊細さんだからこそできる配慮をしたいものだと思った。

とはいえ、ここまで長々と書いたが、これは、実際には被害者が頑張る案件ではない。
やはり、傷を負った被害者ではなく、他者が 実際に痛みを味わっていなくとも、「それはだめだ」と言えなくてはならない。

結局、学校でのいじめに関する教育、企業等でのパワハラについての研修は、継続的に行う必要があるということだ。

遠回しに言うのみではなく、具体的にしてはいけないケースと、そして汎用性のあるハラスメントの認定基準等を定期的に 時間をとって勉強する。

時代の流れと共に、新しい形態のハラスメントがどんどん出てくる。それらを実際に被害者として経験することはなくても、なんらかの形で関わる可能性は誰にでもある。

その時、私は経験したことがないから知らない、では その時点で 自分も「加害者」ではないのか。

弱者が参っていくコミュニティは、いずれ その人だけでなく、集団としての力も失っていく。そのことをもっと切実に受け取るべきだ。

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