自分の知性なんて、ほんとうにちっぽけなもの、だけ

私が尊敬するのは、「自分の言葉で語れる人」だと思う。
どこかからかコピペした言葉ではなく、自分の心から生まれた言葉。

ただし、自分の心とは、自分だけのものではない。
他者とつながっているものだ、世界そのものの中に、自分の心も存在しているのだ。

ということは、自分の心から生まれた言葉、とは
他者と分け合った、他者と重なり合ったことで、生まれた自分なりの思いが 込められた言葉だということもできる。

そう考えると、この世の中のあらゆる営みも、ある一人の人間が誰の手も借りずに成し遂げたというものは、ないということにもなる。
つまり、私がしばしば話題に出す「自己責任」というのも、ある意味 成立しないものだと屁理屈をこねてみたり。

家庭や学校で、また、それ以外の場で教わることは、多くが誰かから誰かに受け継がれたものだ。少し前までは、頭の中にどれだけ多くの知識を蓄えているかが評価基準の上位に常にあった。だが、今はそうとも言えない状況。覚えなくても、調べることができればいいという考えもあったりして。

ただ、人と人の会話の面白さのひとつは、共通の知識を互いにそれとわかって、やりとりしてるときに味わえたりすることだ。
ある古典の一節、今流行っている歌のフレーズ、同世代だけが分かる流行語、などなど。「そうそう、それ」って言い合えるもの。
互いの経験の重なり。そういう楽しみにつながるものだとすると、知識の蓄積もおもしろくなる。

自分が知らなかったことを誰かに教えてもらえるのも楽しい。「へえ、そうなんだー」「知らなかったー」って思う楽しさ。
ちなみに、私の両親は「お前そんなことも知らないのか」って言っちゃうタイプだったし、いくら勉強したところで、そういうことを言われ続けるので、かつての私は知らないということを前向きに考えることはできなかった。

勉強って 何かを知るって、たったひとりでする作業ではないんだ。もちろん、ひとりでしかできない、ひとりでしたい作業もあるけど。

日本の個人主義は、間違ったほうに進んでいると誰かが言うのを聞いたことがあるが、それは、そもそも人がつながりの中で生きるものだ、昔から連綿と受け継がれてきた流れの中に生きるものだということを忘れてしまっているから起きていることではないかと思う。


ひとりでできることは限られている。持っているものを互いに分け合う喜びを、私ももっと味わってみたい、と思えるようになってきた。

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