【続】「夏休みの廃止・短縮」に反対!!
前回の記事では、このところ話題になっている「夏休みの廃止・短縮」の問題について、
学校は「教育の場」であって
「福祉の場」ではない
という点から反対意見を述べた。
一方、それとは違う角度から、文部科学省が「夏休みの短縮」について検討をしているという。それは教員の長時間労働を是正するためだそうだ。
私はこれまで、公立小学校の教員や管理職、教育委員会の指導主事や課長などとして、学校教育に40年以上携わってきた。
あくまでも、そうした経験に基づく「肌感覚」での私見だが、文部科学省が例示しているこの「夏休みの短縮」案は、全国的に実施すれば「世紀の大愚策」になる可能性が高いと思う。
・・・そもそも、教員の働き方を劇的に改善するための方策は、次の3つに絞られるのではないだろうか。
このうち、①と②については財務省が首を縦に振る可能性が極めて低いだろう。文部科学省の関係者も、財務省と本気で折衝をするつもりはなさそうである。
また、③については「ゆとり教育」のときのトラウマが障壁になりそうだし、仮に減らそうとしても、既得権益を守りたい一部の研究者や団体等から猛反発を食らうことが予想されるため、文部科学省が本気で「闘う」とは思えない。
そうした中で「苦肉の策」として示されたのが、
「夏休みの短縮などで授業日数を増やす。すると、週当たりの授業時数が減るから放課後にゆとりが生まれ、長時間労働の是正につながる」
という取組例なのだろう。
ほとんど予算をかけずに実施できるうえ、実際に夏休みを短縮するか否かの判断は各教育委員会に委ねることができる。文部科学省としては好都合なアイデアなのだ。
しかし、「教員の長時間労働の是正」という目的を達成するための手段として「芯を食っていない」という印象は否めないし、デメリットも大きすぎると感じる。
夏休みの廃止や短縮に伴うデメリットについては、前回の記事でも次のように述べた。
そればかりではない。40日前後の長い休みだからこそ可能だったことの一部は、その短縮によって実現が難しくなってしまうことだろう。「のんびりと過ごすこと」も含めて、長い休みだからこそできた経験が失われてしまうことの影響は、短期的にも中長期的にも小さくないはずだ。
また、夏休みの短縮が教員志望者の減少を招く可能性もある。働き方が「ブラック」だと言われる教職だが、それでも(研修等が目白押しだとは言え)長い夏休みがあることは魅力の一つだった。その魅力が減ることは、現在でも深刻な「教員不足」の問題をさらに加速させてしまうかもしれない。
そして、これも「肌感覚」での話になってしまうが、たとえ7・8月に授業日を増やしたとしても「子どもが集まらないのではないか」と思うのだ。
文部科学省は、「夏休み短縮」の先進的な事例として茨城県守谷市の取組を挙げている。しかし、同市は人口約7万人、市内の公立学校は小学校9校、中学校4校という小規模な自治体である。その実践は、果たして全国的に汎用性があるのだろうか。
たとえば、首都圏の公立小学校では、1月になると6年生の教室が閑散としている光景をよく目にする。私立中学校を受験する児童たちが「家事都合」で欠席し、塾の特別講習に参加したり自宅で受験勉強をしたりするためだ。保護者が学校を休ませると判断してしまえば、学校も黙認せざるを得ないのだ。
また近年では、家族での旅行や娯楽のため、平日に「家事都合」で欠席をする児童生徒も珍しくなくなっている。
つまり、仮に7・8月に授業日を増やしたとしても、海外旅行、塾の夏季講習、地域スポーツクラブの合宿等々により「家事都合」で欠席をする子どもが続出し、学級単位での授業が成立しないという学校も出てくることだろう。結局、実質的な「時数の確保」にはつながらない可能性が高い。
それでいて、児童生徒や保護者からは、
「先生たちの働き方を見直すために
夏休みが減らされた」
と思われてしまうかもしれない。とんだ「とばっちり」である。
元・文部科学省の官僚で、退職後に政策研究大学院大学の教授を務めた岡本薫氏は、著書『教育論議を「かみ合わせる」ためのの35のカギ』(明治図書)の中で次のように述べている。
文部科学省の関係者には、この「先輩」の言葉を噛み締めてもらいたいものだ。
そして、各教育委員会の皆さんには、この件に関して冷静な判断を期待したい。