「子ども原理主義者」
「子どものために」
という言葉が苦手である。
いや、正確に言うと、
「子どものために」
という言葉を軽々しく使う人が苦手なのだ。
最近の学校にとって、「教員の長時間労働の是正」は喫緊の課題である。現職教員の心身の健康を守るだけでなく、次世代を担う若者たちの「教員離れ」を食い止めるためにも、今の教育活動を見直して時間外労働を縮減していくことが必須なのだ。
しかし、そうした議論をしているときに出てくるのが、
「子どものために」
という魔法の言葉である。
曰く、「子どものために、この行事は削れない!」
曰く、「大変だけれども、子どものためにやりましょう!」
・・・そもそも、「子どものために」なるからといって新しい取組を増やし続けてきたから、今の「パンク状態」になっているのである。新しいことをやるなら、その代わりに他の何かを削るしかないはずだ。
ところが、管理職や職員室の中で発言力のある者が、
「子どものために」
という言葉を使ってしまうと、そこで議論がストップしてしまうのである。
この言葉を発した本人には悪意がなく、むしろ善意で発言しているつもりだから始末が悪い。まるで信仰のようなものである。こういう人たちのことは「子ども原理主義者」とでも呼んだほうがいいのかもしれない。
長時間労働が是正されず、病気で休む教員や年度の途中で退職する教員が出てしまっては、それこそ「子どものために」ならないのだが。
しかし、こうした「子ども原理主義者」以上に悪質な人たちもいる。
それは、ある取組を止めると、あるいは新しいことを始めないと「自分の面子が潰れる」「自分の立場が悪くなる」という理由で、
「子どものために」
を使う人々である。
こういう「偽・子ども原理主義者」たちが使う
「子どものために」
に騙されてはいけない。
本当のところ、それは
「大人のため」
「自分のため」
なのだから。
そもそも、本気で子どものことを考えている人間は、
「子どものために」
という言葉を安易に使ったりはしないと思うのである。
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