緩衝帯
北海道を中心に、人や家畜がヒグマに襲われるという被害が続発している。
もともと、ヒグマをはじめとするクマたちは山奥に棲んでおり、人との生息域は、集落の周囲にある里山によって隔てられてきた。
しかし、農山村の過疎化が進んだことにより、里山が手入れをされないまま放置されたことで、クマが隠れやすくなり、人里との境界があいまいになったことが、こうした被害の背景にあるようだ。
言いかえれば、里山という「緩衝帯」が失われてしまったのである。
「緩衝帯」は様々なところに存在する。
たとえばサッカーのJリーグでは、サポーター同士のトラブルを避けるため、スタジアム内にはホームとアウェイのサポーターの境目に空席の「緩衝帯」を設けることが常識となっている。
チケットが完売になるような人気のカードでも、スタジアム内に空席の一帯があるのはそのためだ。
こうした「緩衝帯」が、かつては学校と保護者などとの間にもあったと思う。
学校に不満をもつ保護者や地域の住民などに対して、「町内の御意見番」や「世話好きの御婦人」などが相談相手となり、その言い分に理解を示しつつも、
「気持ちはわかるけれど、学校には学校の考えがあるんだから」
「もう少し様子を見てからでも遅くないわよ」
と、「緩衝帯」の役割を果たしてくれていたのだ。
その一方で、こうした人たちが保護者や地域住民の間に燻っている学校への不満や要望などをやんわりと伝えてくれたりもした。それによって未然防止や早期解決を図ることができた問題も少なくなかったように思う。
学校の周りには、こういう「おせっかい」な「緩衝帯」が存在していたのだ。少なくとも、私が新任教師だった昭和の時代には。
時代の変化によって失われた「緩衝帯」は、里山だけではないのだろう。