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《教室》と《職員室》は相似形?

 昨年度(令和5年度)の不登校の小中学生は、34万6482人で過去最多となっている。一方、同じ昨年度に精神疾患を理由として休職した教員は7,119人と、こちらも過去最多を記録した。

 ・・・この2つは、それぞれ別々の問題として取り上げられているが、はたしてそれでいいのだろうか。


 昨年の7月、小学館が運営する教員向けのサイト「みんなの教育技術」に、《カリキュラム運営に「癒し」の視点がありますか?》と題する記事が掲載された。筆者は上越教育大学教職大学院の赤坂真二教授である。

 学校で指導する内容が過剰になっている「カリキュラム・オーバーロード」の問題を扱ったこの記事のなかで、赤坂教授は次のように述べている。

教師の指導性は、これまで子どもを成長させる「ひきあげる」機能と、成長のエネルギーをためる「癒し」機能との二つで整理・研究されてきました。子どもの能力を伸ばすためには、この二つの機能のバランスが大事なわけです。(中略)どうも学校は、子どもたちのエネルギーを使わせることばかりに一生懸命で、エネルギーをためることにはあまり関心を払ってこなかったように思います。

 ・・・たしかに、現行の学習指導要領で扱われている内容や、「主体的・対話的」「個別最適」「協働的」などの学び方は、これからの時代を生き抜くために大切だろう。教師たちによる授業改善の取組に応えて、こうした学習内容や学習方法に適応し、意欲的に活動している子どもたちがいることも事実である。

 しかし、学校にいるのはそうした子どもたちばかりではない。教師たちによる「ひきあげる」ための取組が息苦しさとなり、学級の荒れや不登校の児童生徒の増加につながっているという可能性は否定できないだろう。教師による授業改善が、子どもたちを追い込んでいるのかもしれないのだ。

 赤坂教授は、こうした状況を打開するために「良好な関係性の他者」の存在が大切であると指摘し、次のように述べている。

しかし、発達的な視点でいうと、人には良好な関係性の他者の興味を模倣し、やがてその興味を自分事とするような能力が備わっています。つまり、集団で学習する場合、すべての子どもが勉強好きでなくてもいいわけです。教科書の内容や学習内容を、面白いと思う子どもが一定数いて、メンバーのある程度の良好な関係性があれば、勉強を面白がる可能性が高まるわけです。

教材解釈や発問や指示、説明、授業展開、学習形態の工夫だけで授業改善をしようと思ってもなかなか難しいでしょう。もちろん、それらが無駄だと言っているわけではありません。ただ、子どもは、どんな内容や学び方で学びたくなるのか、といった視点だけでなく、どんな場で学びたくなるのか、といった視点での研究も必要だと言っているのです。癒し、癒し合う視点でのカリキュラム運営は、「一筋の光」ではないでしょうか。

 授業改善だけでは不十分で、子どもたちが「学びたくなる」にはその場に「癒し」が不可欠なのだ。そして、集団のなかでその「癒し」が機能するためには、子どもたちに「ゆとり」が必要なのである。

 さすがの慧眼と言うべきだろう。


 最近、
「《子どもの学び》と《大人の学び》は相似形」
 という言葉をよく耳にする。

「子どもたちの学びを主体的・対話的にしていくのであれば、大人の学びである研修等も主体的・対話的であるべきだ」
 といった文脈のなかで使われることが多い。

 それになぞらえて、
「《教室》と《職員室》は相似形」
 ということも言えるのではないだろうか。

 もしも、《職員室》の中で息苦しさを感じている教職員がいるのであれば、そこには《教室》と同じものが必要なのだろう。

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