「妄想授業」
今から10年ほど前に、NHK総合テレビで『妄想ニホン料理』という番組が放送されていた。
「もしも、日本の料理を見たことがない外国の料理人が、簡単な説明だけを頼りに和食を作ることになったら、いったいどうなるのか?」というのがこの番組のコンセプトである。
毎回、番組のスタッフが世界各国に赴き、実際に料理を作ってもらうのだ。挑戦するのは、一流レストランのシェフ、大衆食堂や酒場の主人、パティシエ、パン職人など、それぞれの国で食に関わる人々である。
挑戦者たちには「料理の名前」と「その料理にまつわる3つのヒント」だけが示される。ただし、ヒントとは言っても、料理名の由来や見た目、手触り、どんな場面で食べられるのかといった大まかな情報だけで、食材や調理法については触れられないことが多い。そもそも、必要な食材がその国では調達できないというケースさえある。
さらにヒントの中には、
「出来上がりを日本語で言うと『トロトロ』」(親子丼)
「刑事ドラマで犯人の心を開くのに使う」(カツ丼)
といった具合に、かえって頭の中を混乱させてしまうものも含まれているのだ。
しかし、そこは食のプロたちである。限られた情報をもとにして、その土地の食材や文化、自身の中にある日本のイメージなどを織り交ぜながら、「異文化交流クッキングバラエティ」というサブタイトルのとおりに、本家の和食とは異なる斬新な料理を生み出していくのだ。
言うまでもなく、その料理のレシピや写真など、具体的なイメージを抱けるものがないからこそ、こうした「妄想料理」は生まれる。・・・それになぞらえれば、「妄想授業」というものもあるのではないかと思うのだ。
たとえば、2000年(平成12年)から小中学校、高等学校などで段階的に始まった「総合的な学習の時間」である。この「総合的な学習の時間」には、レシピや写真に相当する「教科書」がない。加えて、当時の教師自身が子どもの頃には経験したことのない学習活動だった。一部の附属学校や研究協力校の教師などを除けば、授業の具体的なイメージは思い描けない。
一方、教育委員会等が主催する研修などでは、
・子どもの主体性を大切にする必要がある。
・体験的な活動でなければならない。
・テーマとしては、「環境」「キャリア」「健康」「安全」「食」「国際理解」「福祉」「伝統文化」「地域社会」などがある。
といったヒントが示される。そこに「『総合的』というくらいだから、いろんなものを混ぜ合わせるのだろう」という妄想が加味されて、全国各地の学校で実践が行われていった。その結果として、
・子どもが好き勝手に活動をしているだけで終わってしまう。
・「体験活動」と称して行事のための準備時間に充ててしまう。
・環境、安全、国際理解などについて教師が教え込んでしまう。
などの「妄想授業」が量産されることになってしまった。
・・・その後、「総合的な学習の時間」は「ゆとり教育」の象徴としてバッシングを浴び、次の学習指導要領の改訂時には、授業時数が3割以上も削減されるという憂き目を見ることになる。
しかし、10年、20年と年月が経過するにつれ、好事例の横展開などによって、かつて目指していた「総合的な学習の時間」の姿が浸透してきているように思われる。また、近年は高等学校を中心にPBL(プロジェクト学習)が盛んになっているが、これなども本来の「総合的な学習の時間」の具現化だと言えよう。
とは言うものの、元々の姿とのギャップを楽しむためのバラエティ番組ではないのだから、10年、20年という年月をかけずに、もっと早い段階でイメージを共有しておくべきだった、という話なのである。
この「総合的な学習の時間」については平成の時代の話である。では、この令和の時代に「妄想授業」はないのだろうか?
・・・たとえば、現行の学習指導要領の目玉である「主体的、対話的で深い学び」などは、ちょっと怪しい気がするのだ。とりあえず「主体的、対話的」はなんとかイメージできるとしても、「深い」という一語によって「妄想」が生じる可能性が増しているように思う。なにしろ、大半の教師はこういう学びを経験したことがないのだから。
過去の反省を生かすとすれば、教師たちが「主体的、対話的で深い学び」のイメージを、一日も早く実践のレベルで共有することだろう。コロナ禍の3年間で、好事例を横展開する機会の多くは失われてしまったが、まだ手遅れではない。
・・・ただし、「妄想授業」の中から、もともとの「主体的、対話的で深い学び」を超えるような凄い実践が生まれる可能性もないわけではないのだが。