「カリスマ校長」が去ったあと(下)
(前回のつづき)
これまでの記事で、麹町中学校のPTAによる堀越校長へのインタビュー記事の内容を紹介してきた。
その記事のなかには次のような問答もある。
「自由」という言葉の解釈には異論もあるだろう。その一方で、
「学校という集団生活では一定の集団規律が必要不可欠です。」
という言葉はそのとおりだと思う。
私は公立小学校の学級担任や校長として、
「まじめに取り組もうとしている子が損をしない学級(学校)」
を目標の一つにしていたが、そのためには「一定の集団規律」が必要だと考えていた。
おそらく、堀越校長の考え方もそれに近いのではないかと思う。
という言葉が示すように、昨年4月に着任をした時点で、こうした規律の部分に課題を感じ、それを変えようとしたのではないかと感じる。
前回の記事でも述べたように、「主体性」と「規律」の両立を目指すことはできたはずだ。それを難しくさせてしまったのは、学校改革を推進した工藤氏が去った後の「3年間」にあったのではないかと考える。
中学校では、3年間で生徒がすべて入れ替わる。次々と学校改革が進められるなかで、その理念に共感し、高揚感や連帯感をもって学校生活を送っていた生徒たちは、3年間で全員が卒業して学校を去っていった。
また、教職員も何割かは入れ替わったことだろう。月日が流れるなかで改革当初の理念が忘れられ、あとには堀越校長が言う「自由」が残った、という可能性は否めない。
けっして、その3年間の関係者を非難しているわけではない。時が経つとともに当初の理念が忘れ去られていき、表面的な「かたち」だけが残るというのは、教育界にかぎらず多くの改革に共通することだ。
ところで、麹町中学校を巡る話題に関しては、新旧の「校長」という大人にばかり注目が集まっているように思われる。「主体性」や「自律」についても、ともすると大人が生徒たちに与えているかのような印象を受ける。
けれども、これらは生徒が自ら獲得をしたり、生徒の間で継承されたりしていくものだろう。実際に、一部の高校などには今でもこうした学校文化が見られる。
今後の麹町中学校の取組についても、現在の学校のなかで、生徒たち自身が「主体性」を発揮したり、「自律」した姿を見せたりしているのか否かが注目されるべきだろう。
大人から与えられた「主体性」や「自律」ではなく、生徒自身の内発的なものでなければ意味がないのだ。
無論、校長が誰であろうとも、学校が生徒たちのそうした姿勢を尊重することが大前提にあることは言うまでもない。
そして、生徒たちの姿という事実をもって学校改革について語ってもらいたいと願う。現在の堀越校長には、そうした情報発信を期待したい。
前述をしたように、工藤氏が学校を去って以降の「3年間」の関係者を非難しているわけではない。とりわけ、この期間に後任を務めた長田校長(当時)のご苦労は大きかっただろうと推察する。
公立学校の校長は、地域性や児童生徒の実態などを踏まえながら、「学校としての特色」を出すことを求められる。その一方で、公立学校として「共通・平等」であることも要求されるのだ。それでいながら、その在職期間は平均で3~4年に過ぎない。
改革を着実に一歩一歩進めようとすれば時間切れになってしまうし、スピード感をもって取り組もうとすれば「強引すぎる」と批判されることもある。
工藤校長(当時)の改革は、これからの学校教育の方向性を示した画期的なものだったと思う。その一方で、公立中学校として周囲の理解を得ながらの「持続可能な取組」だったかといえば、そこには疑問も残る。
いいか悪いかは別として、現状ではこれが公立学校の限界なのかもしれないと思う。
3回にわたって麹町中学校の学校改革に関することを書いてきた。その内容を整理すれば、次のようになるだろう。