《続》奈良教育大学附属小学校で何が起きていたのか?【中】
前回の記事では、奈良教育大学附属小学校の教育課程を巡る大学側の対応が「悪手」であり、もっと関係者による「対話」が必要だということについて書いた。
一方、「元・公立小学校の管理職」「元・教育委員会事務局の職員」の立場で言うと、附属小学校側にも「脇の甘さ」や国立大学附属校としての「特権意識」があったのではないかと指摘せざるを得ない。
まず、学習指導要領において「全学年」で指導すると示されている「君が代」を、同校では「6年のみ」に指導していたという点だ。
おそらく同校の場合、通常の音楽の授業では「君が代」を扱わずに、卒業式での「国歌斉唱」に向けて6年生のみへの指導が行われていたのだろう。実際のところ、これは一部の公立学校でも見られることだと思う。
しかしながら、「君が代」の扱いはイデオロギー的な対立にもつながるデリケートな問題である。周囲からの注目度が高い国立大学の附属校であれば、もっと慎重に対応をするべきだったのではないだろうか。
・・・続いて、「毛筆」が「筆ペン」で代替されていたという点については、以前にも書いたように「黒っぽいグレー」だと感じる。
たしかに、筆ペンのほうが実用的だ。また、準備や片付けに時間がかかる毛筆に比べて、ずっと合理的でもある。しかしながら、さすがに「一度も毛筆をやらない」となると話は別である。
そこまでやるのならば、「筆ペンによる書写の授業」の公開授業を実施して、その実用性や合理性をアピールしたほうが問題提起にもなり、附属校の取組に相応しかったのではないだろうか。
・・・そして、同校では「道徳科」の授業が全く実施されず、「全校集会」における「道徳」的な指導で代替されていたという点である。
この「道徳科」の扱いも「君が代」と同様にデリケートなものだ。前述した「筆ペン」は「黒っぽいグレー」だとしても、公立学校の基準だとさすがにこれは「漆黒」だろう。
・・・ところで不思議なのは、全国各地にある国立大学附属校の多くには、それぞれ道徳教育を専門とする教員がいて、授業研究会等でその先導的な実践を公開しているということだ。
いや、道徳教育にかぎらず、国立大学の附属校には各教科・領域の専門的な教員がバランスよく揃っていて、その地域の授業実践をリードしている、というのがこれまでの私のイメージだった。
しかし、少なくとも今回の事案を見るかぎり、奈良教育大学附属校に道徳教育を専門とする教員がいたとは思えない。このことについては、さらに調べてみたいと思う。
・・・奈良教育大学附属小学校の教員集団を擁護する人たちのなかには、
「学習指導要領の拘束性を持ち出すことで、先進的な教育実践をしている教員たちを萎縮させるべきではない」
という論調も見られる。しかし、私はそうは思わない。
たしかに、学習指導要領の法的性格については今後も議論が必要だろう。けれども、学習指導要領の枠組みのなかでも新しい取組をすることは十分可能だし、実際に先進的な実践を行なっている公立や国私立の学校はたくさんある。
また、その学習指導要領自体も約10年間のスパンで変化しているし、どの時期の学習指導要領にも「グレーゾーン」はある。少なくとも公立学校の関係者であれば、まずは与えられた条件のなかで可能なことを探すという「半沢直樹」的な立ち回りをするだろうと思う。
加えて、研究開発学校制度や教育課程特例校制度などを利用することにより、正攻法で学習指導要領の枠を取り外すことだってできるのだ。
・・・だから、私は同校の取組に対して、
「学習指導要領の拘束性を持ち出すことで、先進的な教育実践をしている教員たちを萎縮させるべきではない」
ということよりも、同校の教員の「脇の甘さ」や「特権意識」のほうを感じてしまうのだ。それらは意図したものではなく、「麻痺」だったのかもしれないが。
(つづく)