勅使川原真衣さんをゲストに迎えて(中)
(前回のつづき)
3限に6つのグループに分かれて本の読み合わせを行った後、4限からは勅使川原さんにも授業に加わっていただくことになった。
まずは、各グループが「勅使川原さんに質問をしてみたいこと」をいくつか発表し、それに答えていただくかたちで授業は進んだ。
前回の記事でも書いたことだが、この授業のテキストである勅使川原さんの著書に通底しているのは、次のような考え方である。
・・・今回の授業には、次の3種類の参加者がいたと思われる。
①の「勅使川原さんが定義する『能力』について、テキストから読み取っていない者」のなかには、
・テキストを読んできていない者
・読んだけれども、記述の内容を把握できていない者(ざっと目を通しただけの者)
・読んだけれども、(自分の考えと異なるためか)内容を理解しようとしない者
がいたと思う。
②の「勅使川原さんが定義する『能力』について、テキストから読み取ったが『腹落ち』をしていない者」のなかには、
・「能力」の定義は理解したものの、「能力」による選別が行われないことを「実現不可能な理想論」だと捉えている者
・「能力主義を完全に否定することはできない」というところで留まっている者
がいたことだろう。
また、③の「勅使川原さんが定義する『能力』について、テキストから読み取って『腹落ち』をしている者」
のなかにも、
・全面的に賛同をしている者
・現在の自分の業務などと照らし合わせながら、実現の可能性を探る者
・共感をしながらも、その実現性については懐疑的な者
などがいたに違いない。
事前に予告済みの文献を用いた授業であれば、少なくとも著者が主張することの要旨やキーワードの意味などについて理解をしてから臨むのが、大学院生として必要なマナーだろう。前述した①のレベルの院生が、一部にいたと感じられたのは残念だった(②のレベルについても、けっして十分だというわけではない)。
「今の自分には理解できない」というのは仕方がない。しかし、それと「学ぶための準備をしないこと」とは別物なのだ。
また、「文献を批判的に読む」という姿勢は、大学院生にとって必要なことである。しかし、「批判的に読む」ということと、「よく読まずに批判すること」や「内容を理解しようとしないこと」も全く違う。
まずは「自分の考えとどこが異なるのか」や「どこがどのように納得できないのか」を明らかにしたうえで、質問や議論をするべきだろう。
ましてや、今回は実際に著者をゲストとして招いて行う授業である。著者から何を引き出せるのかは、参加者にかかっている。その前提となるのは、学びに対する謙虚な姿勢や、ゲストに対する感謝の気持ちだろう。
・・・このことについては、今回の授業を担当した教員の方とも共有させていただいたが、すでに課題を把握されていた。今後につなげてもらえたらと願う。
私自身も、これから関わる院生たちに「学びに対する謙虚な姿勢」や「感謝の気持ち」の大切さを伝えていくとともに、自分の言動についても見直しをしていきたい。(つづく)