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はじまりはすべてガチャ?…子ども映画で考える1-3宿命
自分が何者であるのかを証明するアイデンティティ、その大切な拠り所となる名前にしても性別にしても、自ら望んで手に入れたというわけでは全然なくて、この世界に生まれたとたん、なかば強制的に付与されたものにすぎないことが、ここまでの議論であらためて浮き彫りになりました。
もちろんそれは名と性に留まらず、あらゆる個性を表わす指標についても多かれ少なかれ当てはまってしまいます。背の高さや太りやすさや肌の色や目の大きさ、さらには学習能力や運動神経や健康面や性格面にいたるまで、その大枠は悲しいかな、遺伝的にあらかじめ決められてしまっているのです。
このように人の個性の大枠を決めてしまう遺伝子を、私たちはみな父と母から受け継いできたわけですが、当然のことながらその両親という存在も、私たちが自ら選びとったわけではありません。
裕福な家に生まれるか、それとも貧乏な家に生まれるか。
愛情たっぷりの両親のもとに生まれるか、それとも日常的に暴力を振るう両親のもとに生まれるか。
それらはすべて運次第。まさに「親ガチャ」。日本国内の経済格差が広がり続ける一方の2021年、恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」にもノミネートされたこの「親ガチャ」という言葉には、眉をひそめる大人も当時少なくありませんでした。
でもよくよく冷静に考えてみるならば、開けてみるまで中身が何か判らないという点で、そのメカニズムは完全に共通ですし、そもそも仏教などで昔から「宿命」と称されてきたのもまた、あらかじめ命に宿されてしまったかのような、当人としてはどうすることもできない「親ガチャ」的事態にほかならないような気もします。
つまり「親ガチャ」などという言葉が生まれるはるか以前より人はみな、かけがえのない人生の肝心のはじまりで、それが自分自身の人生であるにもかかわらず、自らの願いや望みを一切聞き入れてもらえないということに、深く悩まされてきたのだと言えそうです。
それにギリシア悲劇に始まる文学史を顧みても、作家が立ち向かわんとする一番の課題は、いつの時代も「宿命」でした。シェークスピアにせよドストエフスキーにせよ夏目漱石にせよ、歴史に名を刻む文学者たちはみな、「ガチャ」という事態にいかにして向き合い、受け入れ、そして乗り越えるかということを、終生の創作テーマに物語を紡ぎだしきたわけですから。
100年強と比較的歴史の浅い芸術ジャンルである映画にしてもそれは同じ。そこで「宿命」に主眼を据えた今回は、「遺伝」、「環境」、「赤ちゃんの取り違え」という三つの側面から、記憶の闇の彼方にたゆたう、かけがえのない人生のはじまりに、いくらかでも光を当ててみたいと思います。
☆双子として生まれた少女たち
人の個性を表わす指標の大枠は遺伝的に決められてしまっている、先ほどそのように述べましたが、ではじっさいその大枠がどの程度の比率なのかを見定めようとする際に、これまで格好の研究対象となってきたのが「双子」という存在にほかならず、東京大学教育学部附属中等教育学校のそれは、なかでもとりわけ有名です。
双子の見た目がそっくりなのは、一卵性双生児に組み込まれた遺伝情報そのものが、寸分たがわず同じだからにほかなりません。もちろんそれは容姿にかぎらず能力や性格や体質などの各方面に絶大な影響を及ぼしているわけですが、でも、だからといって一卵性双生児であるふたりが、まったくおなじ人生を歩むというわけでは、もちろんありません。
双子が主人公の映画となると、ジャンル的にはホラーやコメディが中心で、その数はさほど多くはなく、これまでたびたび映画化されてきたエーリッヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』や、映像化不可能とされながらもついに実現したアゴタ・クリストフの『悪童日記』など、名作文学の翻案も目立ちます。
そうしたなか今回最初に取りあげるのは、第二次世界大戦後のヘルシンキを舞台にした、『白夜の時を越えて』というフィンランド映画です。
主人公は双子の姉妹の「ヘレナ」と「イレネ」。ふたりはひとつの同じ運命をともにして、この世に生まれてきたはずでした。父親が誰だかわからないということも、生後間もなく母親に捨てられるということも、すべていっしょ。
でもやがて時が流れていくにつれ、姉妹のいのちは異なる色味をそれぞれに帯び始め、抗いがたい運命の力を前に、ふたりは成す術もなく押し流されていくことに…。
双子がそれぞれに辿る人生の対比を、静かに、美しく、残酷なほど鮮明に浮かび上がらせてくれたのは、これまでドキュメンタリーを主戦場にしてきたピルヨ・ホンカサロという女性監督なのですが、続いて取りあげる『アンナとロッテ』も、オランダの女性作家テッサ・デ・ローの小説を基にしています(ちなみに映画を監督したのは男性)。
なにせ「アンナ」はドイツの貧しい農家のもとに、一方「ロッテ」はオランダの裕福な家庭に引き取られることとなるのですから。両親も誕生日も遺伝子も寸分たがわず同じなのに、ある日突然引き裂かれてしまった仲良しのふたり。
しかも当時のドイツでは、ヒトラー率いるナチスが徐々に勢力を拡大し始め、そのような差し迫った状況下で、「親ガチャ」ならぬ「親戚ガチャ」などと嘆くことなど当然許されるわけもなく…。果たしてふたりに再会の時は訪れるのでしょうか。
☆非人間的環境で育った男の子
このように、人の個性もその一生も、すべてがすべて、遺伝で決まってしまうわけではありません。ではだとするならば、生育環境のほうは、実際どの程度の影響を及ぼし得るものなのでしょう。
昔から「氏より育ち」などと言って、生まれついての「身分」よりも、家庭における「教育」のほうが大切と説かれたりしてきましたが、大切な幼少期を、私たちの想像を絶するような劣悪な環境で過ごさざるを得ないとしたら、その子はいったい、どのように育っていくことでしょう。
「幼いころの心のまなざし」と題した序文の最後でもその名を挙げた、フランスの名匠フランソワ・トリュフォー監督による『野性の少年』は、このような問いに真正面から向き合おうとした異色作で、18世紀後半のフランスを舞台に、アヴェロン地方の人里離れた森のなか、ひとりの男の子が「発見」される場面で静かに幕が上がります。
生まれてすぐ両親に捨てられて、どうにかこれまで生き延びてきたのであろうこの男の子は、当然のことながら言葉を口にすることも、人間の子どものような振る舞いをすることも、まったくもってできません。そしてこれまた当然のことながら、当時の人々の好奇の目に容赦なくさらされてしまいます。
そのようすを見るに見かねた「イタール博士」は、自ら勤める研究所で、少年を引き取ることとします。そして推定年齢12歳のこの少年に「ヴィクトール」という名を与え、人間としての再教育を施していくのです。多少なりとも愛情のある家庭なら自ずと身についていくはずの言葉や作法を、まるで生まれたばかりの赤ちゃんを相手にするかのようにして(博士を演じるのはなんとトリュフォー監督ご本人)。
やがて博士は、「ヴィクトール」と過ごした日々を「アヴェロンの野性児」という論文にまとめ、時の政府に提出することに…、そう、「氏か育ちか」をめぐる高度な思考実験か何かのようにも見えるこの映画、じつは本当に起こった出来事に基づいているのです。
これと同じように幼少期の非人間的な生育環境に焦点を当てた作品としては、イタリア映画の『父 パードレ・パドローネ』も忘れるわけにはいきません。
羊飼いを生業とする父親の方針から、勉学など何の役にも立たぬと学校に通わせてはもらえず、幼いころより山小屋に隔離されていた少年「ガヴィーノ」が、やがて文盲の苦難を乗り越え、なんと言語学者として大成することとなるのですが、驚くなかれ、こちらもまた実話を基にしています。
☆産科で取り違えられた子どもたち
「6年間育てた子どもは、他人の子でした」という衝撃的な惹句を掲げ、公開当時から大きな話題を呼んだ是枝裕和監督の『そして父になる』もまた、この日本で過去に少なからず起きていた、産院での「赤ちゃんの取り違え」という実際の出来事に想を得た作品です。
映画では、都心のタワーマンションで優雅に暮らすエリート・サラリーマンの核家族と、北関東の電気店を切り盛りする父親が中心の大家族という、あまりにも対照的な家族の間で「取り違え」という悲劇が起きてしまうのですが、悲劇が判明して以降の二組の父・母・子の複雑な胸の内を、是枝監督はこのうえなく繊細な手つきで丁寧に掬いあげてくれています。
わたしたち観客は、事の成り行きをただただ固唾をのんで見守るばかりなのですが、なかでも忘れがたいのは、わが子の姿を日々見るにつけ向上心や競争心が足りないように感じていたエリートが、自らの血ではなく、どことなくずぼらな電気店主の血を引いていたのだと知った瞬間、驚くよりむしろ妙に納得してしまう場面です。
人の個性を成り立たせるのは、遺伝なのか環境なのか?
親子を真に繋ぐのは血か、それとも共に過ごす時間か?
このような根源的な問いの奥底に潜む残酷さが、ここで突如その正体を現したかのようで、観る者を慄然とさせずにはおきません。
わが子と思っていた子がわが子ではなかったというあまりにも残酷な事実を前に、はじめのうちは、ただただうろたえるばかりの大人たちでしたが、これまでに身につけてきた知恵や経験や体裁や諦念などを総動員することでやがてどうにか、その事実を受け入れ、折り合いをつけることができるまでに至ります。
ですが、知恵や経験や体裁や諦念がまだ身についていない、肝心の子どもたちは? もしかしたら「取り違え」という残酷な真実が本当に恐ろしい牙を剥くのは、子どもたちが思春期を迎え、自分という存在の成り立ちにあれこれ思いを巡らせる、十年後のことかもしれません。
とにもかくにも是枝監督作品には、大人にいろいろと考えさせてくれる「子ども映画」がじつに多く、トリュフォー監督作品同様この先も幾度か触れる予定でいます。
また、「取り違え」をテーマにしたもうひとつの重要作『トト・ザ・ヒーロー』ついては、第3章「虚実」であらためて取りあげたいと思います。
☆はじまりはすべてガチャ
記憶の闇にたゆたう、かけがえのない人生のはじまりを照らすべく、「遺伝」、「環境」、そして「赤ちゃんの取り違え」という三つの側面から光を当ててきましたが、その結果、章のタイトルにも据えた「はじまりはすべてガチャ?」という問いには、もはや疑問符などまったく不要という地点までやってきてしまったようです。
しかも「はじまりはすべてガチャ」というこの不動の事実は、遺伝子工学や生殖技術がますます進んで、親の望みや願いを忠実に反映させた「デザイナーベイビー」が当たり前となる未来においても、動かしがたい事実であり続けることでしょう。
なぜならば、そのような未来においても、望みや願いはあくまでも親のものであり、子の意思はそこにいっさい反映されてはいないのだから。
ただ同時に、「はじまりはすべてガチャ」というその一点において、誰もがみな平等であるということも、確かに言えるように思うのです。
背の高い子も低い子も。
痩せた子も太った子も。
色白の子も色黒の子も。
一重まぶたの子も二重の子も。
勉強が得意な子も不得手な子も。
走るのが速い子に遅い子も。
活発な子も内気な子も。
男の子も女の子もそのどちらでもない子も。
富める者も貧しい者も。
勝者も敗者も愚者も賢者も。
それにもちろん親も子も。
誰もがみな例外なく、その人生のはじまりは、すべてガチャ。
ところでこの章の最初に取りあげた映画『白夜の時を越えて』の女性監督は、映画の撮影中、フランスの女性思想家シモーヌ・ヴェイユの断想集『重力と恩寵』を、常に手元に置いていたそうです。
そこで当時の彼女の座右の書をあらためて紐解いてみるならば、世界や自分という存在をめぐる不思議と向き合っていくうえで、ハッとさせられるような言葉が次々と目に飛び込んでくるのでした。
なかでも次のふたつの文章は、これから先の議論においても深く胸に留めておきたいところです。
完全なよろこびは、よろこびの感じそのものすら必要としない。なぜなら、対象によってすっかり満たされたたましいの中には、<わたし>とことさらにいう余地はどこにもないからである。
わたしの父と母とを出会わせた偶然について深く考えてみることは、死について瞑想にふけるよりももっと有益である。
『白夜の時を越えて』1998年 フィンランド ピルヨ・ホンカサロ
『アンナとロッテ』2002年 オランダ・ルクセンブルク ベン・ソムボハールト
『野性の少年』1969年 フランス フランソワ・トリュフォー
『父 パードレ・パドローネ』1977年 イタリア パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
『そして父になる』2013年 日本 是枝裕和