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『Perfect Days』 本当の意味で丁寧な暮らし

2024.12.29
映画『Perfect Days』を観た。役所広司演じるトイレ清掃員の日常をルーティーン的に描いた作品。

まず思ったこととしては、「こんな人間いないだろ」ということだ。主人公は「少なく、しかしより良く」を体現したような人物である。ぼろい家に住み、早朝に目覚め、植物に水をやり、仕事を淡々とこなし、風呂屋に行き、下町の駅の安い飲み屋で夜を過ごし、寝る前に小説を少し読み進めて、眠りにつく。
こんな人間、いないだろう。情報の渦に巻き込まれず、自分の身の回りのことだけに気を配り生活する。社会を見れば、あの年の頃の独身男性がいたとして、寝る前はだらしなくもスマホを見てしまいたくなるものだろうし、目覚まし時計ではなく箒の音で起きることは無いだろうし。(同時にそういうような生活のディティールが同映画において彼の日常をうらやましくも思えるような、魅力的なものにしているのだとも思う。)
主人公は、カギカッコつきじゃない「丁寧な暮らし」のイデア的な存在なのだと思った。

そのうえで、映画を観たとき、自分はこの生活者像は、前提として受け入れられるあり方だなと思った。そりゃそんな生活はいいなと思うけど、想像の範疇だったのだ。だからこの映画が評価されたのは、その前提を踏まえたストーリーや、メッセージにあるのではないかと考えていた。しかしそのようなものは自分の目からは捉えられなかった。
鑑賞後、ピースの又吉さんによる映画の感想を見た。主人公の暮らしぶりが魅力的だという話が大半だった。もしかしたら、彼のうらやましさも覚えるような、けれど現代人には難しい生活の様子が、それが最も映画が評価された要因なのか?と思った。
そのことを2時間かけて伝えようとしたのか?それはtiktokやらでながれてきそうな「丁寧な暮らし」系の動画を丁寧に、そして長く見せているだけなのか?ということが気になり始めた。
(そもそもこんなに時間をかけて、これくらいの新鮮な事柄を受け取った、というコスパ感覚が昨今の病理で、こんな疑問を抱くこと自体が野暮なのか?)
もしくはもっともっと手前の話で、あの生活の在り方が多くの人にとって新鮮だったということなのか?
近年流布している、(カギカッコつきの)「丁寧な暮らし」と何か違うんだろうか。ちょっと考えてみたい。

「丁寧な暮らし」が自己矛盾から逃れる方法
Perfect Daysの彼と「丁寧な暮らし」との違いは、「登場人物に承認欲求がないこと」なのではないかと思う。「暮らしを見せるために生活してるわけではない」ということだ。
映画の登場人物は、誰かに見せびらかしているわけではなく、当人に最もしっくりくる生活を送っていることを、観客に観られている。そこに自己顕示や自分への負担がない。これが「丁寧な暮らし」を本当の意味で表現する上で必要不可欠なポイントである。
なぜなら、丁寧な生活とは、「自分が本当に心地よいことを選ぶ」ことであるはずだからだ。
そして彼は映画の中で、自分自身の生活に満足げだった。これが丁寧な生活を本当の意味で彼が送れていることの証明になっている。
つまり、映画でこそ、「丁寧な暮らし」からカギカッコを外すことができるのだ。そういう意味で、単調にも見える生活を、時間をかけて、映画という手段を使って描くことに一定の意味を見出せた。

逆に言えば、SNSでも、自分の心地よい生活をしている人を隠し撮ったりすれば、本当の意味で丁寧な生活を届けられるのではないだろうか。
例えばある商品を好んで使っている人が、ちゃんとその品が生活にフィットしていることを切り取ったドキュメンタリーのCMとか。そういう意味で「丁寧な暮らし」と、広告的なるものの共存もありえるんじゃないか?

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