太極拳でした!20250209

最近、残業続きで木曜夜の太極拳の稽古に出られないことがままあり、そんな時は日曜の稽古に参加しています。今日も振替で日曜クラスにお邪魔してきました。
稽古場は北浦和公園。公園内には埼玉県立近代美術館があり、稽古後に美術鑑賞ができるという贅沢なロケーション。振替稽古も悪くないなぁと思い始めている珠見です。

「肉体と精神を別々に動かす」の回でした。
肉体が先行して動けば、その動きは相手に気取られないものになり、精神が先に動けば、それを追う肉体の動きを相手は遮ることができない。
初めて習うことではないのですが、今日は以前は考えなかったことを考えたのでした。

これ、捨己従人じゃね?

捨己従人とは、己の作為を捨てて、相手の動きに添うことで、己の為すべきを為してしまうという太極拳の思想……らしいのですが、「肉体」と「精神」という二者関係はこの考え方における「己」と「相手」なのでは?そして、どちらが「己」でどちらが「相手」になるかは、時々で変わるのでは?
人は、自分の中にある世界観を外界に投影し、外界からのフィードバッグで自分の中の世界観をバージョンアップさせていくものです。なら、外にある「自他」という二者関係が自分の内側にもあってしかるべき。その二者関係に、「肉体」と「精神」は当てはまるのでは。

私には、肉体は精神に時間差なく従属するものだという認識が強くあります。肉体を「他者」と見なすことを難しく感じてるんですね。
いやね、「他者」と認識した方が何かと都合が良い、という考えではいるのです。肉体そのものを「自分」だと認識してしまうと、私はこれを雑に扱いがちなので。よくないです、非常によろしくない。
自戒として「自分なんて所詮他人です」を標語として掲げています(これは「肉体」「精神」の二者関係に限らず、自分そのものを「主体」「客体」で認識する試みでもありますが)。
……ほんとはね、自分だと認識した上で丁寧に扱うのが一番良いと思うのですが、それはまぁ、方便というか、順序はどうあれ結果が出ればそれでというかね。

どうあれ、「自分」という概念にいろんなものが癒着していると、近すぎて見えなくなるんですよね。「肉体」もそのひとつ。 

今日の稽古で先生が見せてくれたのは、「肉体」の動きを、他人事のように観察すること。作為を入れない動きの方が、より純粋に「機能」を発揮すること。
そう、「肉体なんて所詮他人です」。
初めてその感覚の端緒を掴んだように思います。2年目でやっとかぁ(大の字)。

「肉体」は理(ことわり)の世界の存在なので、今まで生きてきた中で身についてしまった、内面世界と連動した妙な癖を外してしまえば、上手く機能するしかないはずなんですよね。
外していきたいなぁ、癖。
珠見は、股関節をロックしてしまう妙な癖がいろんな制限を生んでいるのです……。股関節を折ることを自分に許可していきたいですね。

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