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やはり、恋は色欲であり、愛は物欲なのだろうか

生きるのに、それほどお金なんか必要かな。結婚し子供がいるなら、そりゃ育てるためにはそれなりにお金もいると思う。それでも、そんなに大量の資産なんかいらない。


お金などたくさんあったからって、何ができるんだって自分は思う。こんな事を言えば共産主義者だの、負け犬だの言われるけど、これは子供の頃既に感じていたもの。

あの頃は欲しいものはたくさんあった、たくさんあったけど、それを欲しいと思ってる事が幸せで、手に入れると虚しくなる。

最後は飽きてゴミになる。いくら大事にしてたって物はものなんだ。汚れて壊れたら捨てるしかない。


何でも汚れるんだ、大人になった、この心でさえ薄汚れてしまう。

裏切られ、薄汚れ、傷つき、孤独になる。


どんなに言葉を尽くしても落とせない汚れが心にへばりつく。思考の恥辱を受けて、洗脳され支配され、何者かの操り人形に成り下がる。誰かを崇拝してなきゃ生きていけないんだ、それが人間。

支配者になりたがる者は、人の言うことなんか認めたりはしない。ただ言うことを聞かせるだけ、支配するだけ、自分の欲のために他者を利用するだけ。


偏見者は自分のことしか考えられない。その偏見の対象になる人々の事などどうでもいい、自分さえ良ければそれでいいと考える。


共感性もない、自分の身になって考えるとすることすらできない。怪我をして痛い思いをしても、自分だけが怪我をして痛いんだと思い、他者が怪我をしても感覚的な共感性が出てこない。他者の痛みや悲しみ、苦しみに「ぞわっ」とした感覚を覚えない。もしもこれが自分だったら、なんて考えない。


どんな偏見者でも寂しそうな顔をする時がある。どんな差別主義者でも、哀しそうな仕草、表情や態度を見せる時がある。

たくさん仲間がいるように見えても、孤独のような、ひとりぼっちのような感じを受ける時がある。自分にはそれが見える、だからかわいそうになる。


とても口が悪くて、乱暴な物の言い方をしたり、敵意ある言葉を使い続けていても、その心の中にある淋しさが見えてしまう。それが見えるから、自分は言葉を尽くしたくなる、胸が締めつけられるから。


怒りや憎しみなんて、誰もが持ってるもの、だから人を罵り見下し続ける。裏を返せば、それは淋しいとする意思表示みたいなもの。


人気がないから淋しいわけじゃなく、お金がないから満たされないわけじゃなくて、必要だった愛が得られなかったから、怒りに満ちて憎しみに呑まれ支配される。


誰にでも愛は必要で、本当は男も女も色欲だけじゃない、心からの男女の愛を求めてる。


それが無いから淋しそうな顔をするんだよ。どんな人でも、そんな仕草、顔をするんだ、せつないような背中を見せる。想いは叶わないんだよ、簡単には叶わない。


本当の愛が無ければ、見た目だけ、ルッキズムだけの関係になる。そんなのは、ただ生きているだけのマネキン人形。


だから誰でもいいなんて事はなくて、統一教会の合同結婚式や、恋愛禁止、外部の者との接触禁止とするカルトの掟のようなものは、人の心を封じ込め閉じ込める牢獄になる。


女性ってのは、男に養ってもらうために生きてるわけじゃないし、男の色欲を満たすための玩具じゃないし、家政婦でも奴隷でもない。だから女性解放運動、フェミニズムとは民衆を導く自由の女神と同じなんだ。

それは革命なんだよ、女性達による男女平等、フェミニズム革命なんだよ。


俺は男に媚びる女は好きじゃない。それと同じく男を利用する女も好きではない。真っ当な心を持ち自分自身を信じて今をしっかり生きてる、真っ当な道徳心と正義の心を持つような、そんな人が好きで、陰謀論なんかに騙されてるのは問題外。左右の思想主義に参加してるのも問題外。

何者かに支配され、自分自身をその洗脳から守れなかった、何者かからの思考の恥辱を受けた人も問題外。


素直になれない、頑固で臆病な人も問題外。


淋しい、淋しいとばかり言いながら、優しい言葉だけを求め続けて、お試し行動みたいなことをして、本当の愛よりも色欲に負けてしまうような人も、好かない。


いつまでも心を病み、脅えて誰かに甘えて、自分ばかり辛いと言いながら気を引こうとする。興味もないなら、なぜ試すようなことばかりする。

今まで関わった女の人は悉くそんな人ばかりだった。似たような人ばかり、何故かみんな心を病んでる。病んでるからこそ、邪な男に簡単に騙される。だから自分は、女性とはみんな心を病んでるものかと、思っていた。


いくら守ろうとしても、ふらふらと狼の方へ歩いてく。手を引っ張ってもそれを振りほどく。どうして、何故そうなってしまうのだろう。


確かに、自分は奥手と言うより、最初から誰も本気で好きになんかなれなかった。本気で好きではないが心配をし、守りたいとする気持ちはあった。自分の手で汚したくないから、一晩共に居ても指一本触れない。


大切な愛を見つけて、幸せになってほしいと思っていたから。でも、みんな狼に喰われてしまった、それが幸せだったのかどうかなんて、俺には解らないし、今も元気で生きてるなら、それがその人達の幸せの基準になる。


今幸せなら、結果それも正解だったのかもしれない。自分が間違ってる、そう考える事も必要なんだと思う、きっと。


それを認めるのが嫌だったのかもしれない、今までの自分を否定する事になるから。


お金なんかじゃないって言う、自分が間違ってるのかもしれない。愛や純粋な恋よりも、やはりお金の方が重要なのかもしれない。


お金のためなら、色欲、我欲を貪ることも必要なのかな。それが真っ当なのかな、普通や当たり前が正義であり、こんな自分の方が間違ってるのかな。

お金のために教祖のような事をやって、騙すように相手からお金を引き出すこと、それも生きるための知恵で、ビジネスでもあるのかもしれない。


裕福で支配権力のある者に従い生きることが、女の幸せなのかもしれない。女性解放運動、フェミニズムなど間違ってるのかな。


俺が間違って生きてきたから、真逆の事ばかり言ってきたのかな。



俺は優しいとかじゃなく、自分のために、こんなことやってきただけ。これも自分の我欲を満たすためだったのかな。


昔から、身近な人より、顔が解らない相手に心を引かれる事が多かった気がする。いくら身近な誰かに抱きつかれても、顔も解らないような女性の、何てこともない返事が嬉しかった。それは何でだったのかな。

これはカエル化現象ではなくて、そもそもから好きでもない人に色欲だけで抱きつかれても、何とも思えなかった。男としては確かに嬉しい、嬉しいが違う、何かが違う、そんなもの求めていない。

どんなに魅力的な服装で、いくら頬を撫でられ積極的にされても、心は動かなかった。


まるでガンジーと言われた事もある。その意味が解らなかったが、しかしガンジーだってもっと積極的だったと言われてる。

自分自身がLGBTなわけでもない、ちゃんとした異性を好む男であるのは自覚してる。その気もなくキャバクラで女性を口説いてみた事もある。


解らないが、自分が求めるものはもっと別にあった。お金では手に入らないもの、色欲だけでも手に入らない、もっと違う何か。


それを見つけても、簡単には手に入らない。一生手が届かない、どうしようもない。

それが自分の求める何かだった。


複雑すぎるのかもしれない、考えることが。自分が理解されないのはそこにある。何を言いたいのか解らない、意味が解らない事ばかり言うから、誰にも理解されない。

ただ、不道徳なものが嫌だった。そんな不純なものを知りたがる自分を嫌悪した。それは克服できないものだと自覚した。

これも醜形恐怖症の一種なのかもしれない。自分の心を醜く感じてしまう。









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