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愛と覚りと欲望とは、契約の箱、三種の神器と同じ意味であり、この世の真理である3つの法則を表現した言葉
誰も信じないような話をしてるが、それでも自分はただひたすら話すしかないんだ。そもそも自分はそんなに知識のあるような人間じゃなかった。若い時から勉強など一切しない、歴史も何も学ばなかったし社会経済なんかまったく興味なかった。
宗教など信じないし、神や天使なんて概念、人間の妄想だと疑ってたし、聖書は適当な言葉の羅列だと思っていた。数学も科学も哲学も、まったく興味なかったし、何にも知らなかった。
自分が興味あったのは、ゲームにマンガ、遊びに夢中だった。他は正直どうでもいいと思っていた、今が楽しければいいと、時を騙し騙し生きていたような感じだった。
恋や愛とか言うものを鼻で笑っていた、ちゃんちゃらおかしいと、こっぱずかしいものだと認識していた。恋愛ソングなど鳥肌が立つほど嫌いだったし、ドラマや映画など、恋愛もの、愛が入るものは全て嫌悪していた。
それよりお笑い、コメディを見てた、ホラー映画や暴力的なギャング映画とか、そんなものを好んで見ていた。ヤクザもの、ヤンキーマンガとか、実話ナックルズのような雑誌を好んだ。しかし歴史的な都市伝説のような類いは飛ばしていた、興味がなかったから。
それでも一応は、今に近いような話は確かにしていた。陰謀論についても、ミスター都市伝説や、今現在のディープステート陰謀論を信じている人達と同じような話をしていた。
それも今思えば低意識だったと思う。それでも、5年以上前か、左右の主義に偏らず、誰もが錆びつかせて沈黙させている、心の中にある天秤のジャッジをする、そんな感覚の中で「沈黙の天秤」この言葉を思いついた。
それでも、その頃はまだ常にふざけてるのが楽しいと思ってた。それらの名残は今もあるが、その頃とは今の自分はまったくの別人のように違っている。
何故だろう、どうして自分はこうなったのか、それが解らない、解らないが、なぜか解ってしまってる。不思議としか言いようがない、どうしてここまで解ったのか。何にも興味もなかった事を、なぜ突然にこれほど熟知してしまったのか。
確かにあれは3年近く前、その頃からだった。2022年の3月3日のあの日からだった。これは嘘でも妄想でもなく本当にあったこと。
何故だろうな、どうして自分は覚ったと思ったのか。YouTubeのお勧めによく出てくる「突然に全てを理解したチンチラ」、あの感じに似ている。ふざけてるわけじゃなくて、本当にあんな感じだった。あれは笑ってしまうけど、でも本当に自分もあんなだった。
そう思い込んだのか、そう思いたいのか、自分でもよく解らないが、確かに何かを覚ったのは間違いなかった。
だから愛と覚りと欲望、その答えを得た。目を閉じて考えること、それがアカシックレコードのようなものにアクセスすることだと、その感覚は知っていた。スピリチュアルやニューエイジにはまったく興味がなかったので、アカシックレコードとは何かなんて調べてもいないから、その頃はその意味すら知らなかった、自分が自然に行ってた事がまさに、それだったことを。ルドルフシュタイナーについてはここ最近、3年以内に知った人物で、神智学教会も偶然Wikipediaを何となく見てたら見つけたものだった。そのニューエイジとは何かをよく調べてみた、その結果、自分が解らなかったこと、謎だった事が全て結びついた。
それ以外は瞑想のような感じで自ら考え導き出した。その感覚を、宇宙の地図を見る、または心の奥底にある記憶を呼び覚ます、宇宙のマトリックス図、それを見て思い出すこと、のような感じで表現していた。
あの日、自分は覚った。最初に見つけたのが、愛と覚りと欲望の法則。
愛とは生み出す力、覚りはその生み出した愛を渡す力、最後にその愛を受けて力を解放するのが欲望の力。これは女神テミスのジャッジと同じで、女神自身が愛として、目隠しが覚りとなり、ソードが最後のジャッジを振り下ろす力となる。
これがユダヤ教の契約の箱の概念、法則がそのまま日本に伝わった、三種の神器の本当の意味だった。
マナの壺は生み出す力、2つに割れた石板に書かれている内容は神との約束、十戒なので覚りとなる。最後に全てを解放するアロンの杖による強大なる力、その三位一体の法則が契約の箱の意味だと覚った。
三種の神器で言えば、鏡は光を反射する、太陽の力をそのまま生み出す物だと解釈する事ができる。そして勾玉がそれを受け流し渡す。その勾玉の形状から見れば、陰と陽の太極図と同じで、白と黒が2つとなりワンセットとなるものだと導き出せる。
契約の箱の2つに割れた石板は、東西に分かれて、1つは日本の何処かに保管されている。それは死海文書の預言に書かれている意味そのままであり、東の石板と西の石板が揃う事を、アロンの預言者とイスラエルの預言者が出会う、と表現しているようなものになっている。
自分が思うに、三種の神器がある日本と、契約の箱があるイスラエル、エルサレムか、それともアメリカか、その東西の石板(神との約束)の統一が死海文書の預言だと解釈する。
日本の鳥居は、聖書に記された狭い門であり、それ以外は広い門となる。鳥居を潜り抜ける事が狭い門から入り、イエスキリストが言った通りの、神の元へと続く道を進むこと、神道を歩くこと。キリストは「わたしが道であり真実、わたしを通らねば何者も神の元へは行けない」そう表現している。それは、真の預言を聞ける者が神の狭い門を潜り抜ける事ができると言う意味となる。
日ユ同祖論ではなく、そもそもからその預言は世界中の科学や哲学、宗教、神学、全てにおいて同じ共通の意味がある真理だった。
キリスト教かユダヤ教ではなく、イスラム教が間違ってるわけでもなく、仏教や他宗教の教え、概念が間違っているわけでもなく、スピリチュアルやニューエイジ思想が間違ってると言うわけでもない。全てにおいて神学は一致している、それらのものに共通するもの、その基本にあるのが愛。だから互いに間違った認識の教えだと考えるのは、それこそ神を信じないことに等しい。
全ては神を中心にしてある神秘的なもの、神学であり、神なくして、神を信じずに、それらのものが成り立つことはない。全てにおいて神を信じること、それが大前提。
この見解が正しいのなら、最後の審判も必ずやって来る。
自分は「ほら見たことか」など言わないし言いたくもない。だから沈黙などせず、ひたすら言葉を綴り続けてきた。嫌われる覚悟を持ち臆せず人に指摘してきた、どんな人でも関係なく、躊躇なく言及してきた。
自分が言わなければ誰も言わないような指摘をしてきた。
沈黙は孤独だが、沈黙しないことも孤独となる。たった1人の革命を、たった1人の反発を、たった1人の愛のために。
命儚くば、混沌たる生命に辛辣なる感情を持ちながら、新しい生命の夜明けを待ち望む。その矛盾を知りたくば神に身も心を委ねること。愛とは神の心であり、その愛を信じることが神を信じることでもある。