【量子力学2】量子状態【重ね合わせの原理】
「量子状態は同じ状態にあっても射影演算子で分解する仕方が何通りもある」という考え方に適した数学の舞台としてベクトル空間が挙げられます.あるベクトル空間の元で状態を表すことにし,そのベクトルをP. ディラック(Paul Dirac)はケットベクトルと呼び$${\ket{\cdot}}$$のように書きました.ケットなるものは単なる記法ですがうまくできていて式の見通しが非常によくなります.
重ね合わせの原理
前々回ベルの不等式について考えたときと同じ設定でスピン角運動量について考えてみます.粒子Aについて$${a}$$軸方向に測って,$${+}$$の角運動量を観測したときに,その後$${a}$$軸から角度$${\theta}$$傾けた$${b}$$軸方向に粒子Bを測ると確率$${\cos^2 (\theta/2)}$$で$${-}$$,確率$${\sin^2 (\theta/2)}$$で$${+}$$の角運動量となることが実験的にわかっています.例えば角度90度の方向だと確率$${1/2}$$で$${-}$$,確率$${1/2}$$で$${+}$$の角運動量になります.また,この角運動量は決まった離散的な値(つまり今の場合は二通りだけ)を取ることも特徴です.
これは$${a}$$軸について決まった状態にもかかわらず,状態は別のケットでも表現できるということで,
$$
\newcommand{\lr}[1]{\left(#1\right)}
\begin{align*}
\ket{a+} = \cos \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b+} + \sin \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b-}\\
\ket{a-} = \sin \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b+} - \cos \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b-}
\end{align*}
$$
のように書くことにしましょう.$${\ket{a\pm}}$$は$${a}$$軸方向に測って$${\pm}$$の角運動量を得ることが確定した状態で,$${\ket{b\pm}}$$も同様です.また,ケットは単位ベクトルとしておきます.こうすると,基底ベクトルの角度$${\theta}$$に依存して滑らかに無限の表し方ができます.右辺は別の状態の線型結合の形をしていて,これを重ね合わせの原理といいます.
射影演算子
射影演算子を定義するために,内積をこの空間に入れます.ケットベクトルに対して,双対な関係にあるブラベクトルを作用させると内積を得られるということにします.ブラベクトルは$${\bra{\cdot}}$$と表し,
$$
\begin{align*}
\bra{\alpha}(\ket{\beta}) = \braket{\alpha|\beta}
\end{align*}
$$
によって$${\alpha}$$と$${\beta}$$の内積とします.内積がこのように括弧(ブラケット)の閉じた形になって見やすいのがこの記法の特徴です.
$${b}$$軸に測ったときの状態$${\ket{b+}}$$と$${\ket{b-}}$$はどれか一つしか実現しないので,
$$
\begin{align*}
\braket{{b+} |b-} = \braket{{b-} |b+} = 0
\end{align*}
$$
と直交しているとします.
すると,$${a+}$$状態にあって$${b}$$を測り$${+}$$になる確率は
$$
\newcommand{\lr}[1]{\left(#1\right)}
\newcommand{\abs}[1]{\left| #1 \right|}
\begin{align*}
f(b+\mid a+) = \abs{\braket{b+|a+}}^2 = \cos^2 \lr{\frac{\theta}{2}}
\end{align*}
$$
と書けます(量子状態を準備したものに対して測定を行うのでいつも条件付き確率になることに注意).ここで状態$${\ket{\alpha}}$$で定義される空間に射影する演算子を
$$
\begin{align*}
P(\alpha) = \ket{\alpha}\bra{\alpha}
\end{align*}
$$
と書くことができます.確かに
$$
\begin{align*}
P(\alpha)^2 = \ket{\alpha}\underbrace{\braket{\alpha|\alpha}}_{1}\bra{\alpha} = \ket{\alpha}\bra{\alpha} = P(\alpha)
\end{align*}
$$
という冪等性が成り立っています.射影演算子を任意の状態$${\beta}$$に作用させると,
$$
\begin{align*}
P(\alpha) \ket{\beta} = \ket{\alpha}\underbrace{\braket{\alpha|\beta}}_{\text{ただの数}} \propto \ket{\alpha}
\end{align*}
$$
となり,状態$${\ket{\beta}}$$の中の$${\ket{\alpha}}$$空間の成分を抜き出すような働きをします.射影演算子の取り方によって,いろいろな成分を抜き出すことができます.
射影演算子を用いれば,先の確率は
$$
\newcommand{\lr}[1]{\left(#1\right)}
\newcommand{\abs}[1]{\left| #1 \right|}
\begin{align*}
f(b+\mid a+) = \abs{P(b+) \ket{a+}}^2 = \bra{a+} P(b+)\ket{a+} = \cos^2 \lr{\frac{\theta}{2}}
\end{align*}
$$
のように書けます.一般に,射影演算子を用いて物理量がある実現値をとる確率を測ることができ,状態が$${\ket{\beta}}$$のときに実現値が$${\alpha}$$を取る確率は
$$
\begin{align*}
f(\alpha\mid \beta) = \bra{\beta} P(\alpha) \ket{\beta}
\end{align*}
$$
と書くことができます.
射影演算子の性質についてもう少し見ておきます.ある一つの物理量の実現値の全てのセットを$${\alpha_k}$$とおきます.このとき,
$$
\begin{align*}
\sum_k P(\alpha_k) = I
\end{align*}
$$
が成り立ちます.ここで$${I}$$は恒等演算子です.
この式の意味は,射影演算子で分解したものを全て足し合わせると元に戻るという明らかなことを言っています.これを完全性関係と呼びます.
物理量は,古典的な場合に考えたのと同様,射影演算子を用いて
$$
\begin{align*}
A = \sum_k \alpha_k P(\alpha_k)
\end{align*}
$$
とスペクトル分解の形で表すことにします.ある実現値をもつことが確定した状態に,物理量を演算子として作用させると
$$
\begin{align*}
A \ket{\alpha_i} = \sum_k \alpha_k P(\alpha_k) \ket{\alpha_i} = \alpha_i \ket{\alpha_i}
\end{align*}
$$
となります.このように書くと,物理量の固有値が実現値として現れることがわかります.任意の状態$${\ket{\beta}}$$にあるとき,物理量$${A}$$をはかったときの期待値は
$$
\newcommand{\alr}[1]{\left\langle #1 \right\rangle}
\begin{align*}
\alr{A} = \bra{\beta} A \ket{\beta}
\end{align*}
$$
となります.なぜなら右辺は
$$
\begin{align*}
\bra{\beta} A \ket{\beta} &= \bra{\beta} \sum_k \alpha_k P(\alpha_k) \ket{\beta}\
& = \sum_k \alpha_k \bra{\beta} P(\alpha_k) \ket{\beta}\
& = \sum_k \alpha_k f(\alpha \mid \beta)
\end{align*}
$$
となり期待値を求める式になっているからです.
複素数の必要性
ところで,これまで$${a}$$軸と$${b}$$軸を角度$${\theta}$$をパラメータとして色々取ることができるということは考えましたが,取りうる方向はこの同一平面上に限らないはずです.よって新しい角度のパラメータ$${\phi}$$を導入する必要があります.しかし,既にケット$${\ket{b\pm}}$$を用いた状態$${\ket{a\pm}}$$の表記法は使い果たしてしまったようにも思えます.このことは,実数だけを用いて状態を表現するには限界があり,全ての状態を表現するには複素数が必要であることを意味します.ベクトルの大きさを変えないように複素数を表現に加えれば,
$$
\newcommand{\lr}[1]{\left(#1\right)}
\begin{align*}
\ket{a+} &= \cos \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b+} + e^{i\phi}\sin \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b-}\\
\ket{a-} &= \sin \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b+} - e^{i\phi}\cos \lr{\frac{\theta}{2}} \ket{b-}
\end{align*}
$$
によって状態を表現することが適切です.
以上からわかったことは,量子力学では状態を表現する空間として,「内積の定義された完備な複素数体上のベクトル空間」が適切でありそうということです.この空間をヒルベルト空間と言います.そして実際にヒルベルト空間で記述するとうまくいくのが量子力学です.この内容を要請として今回のまとめとしておきます.
今回のまとめ
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ここまで考えてきた内容だと,前回話した古典力学における状態と観測の記述との対応がわかりにくいと思います.今回は綺麗に準備された量子状態に対しての観測,すなわち状態に関して知らないことはない上で,それでも確率的に実現値が得られるという本質的に量子力学的な観測を考えてきたため,そもそも古典力学での観測とはまた質的に異なったものだったわけです.しかし,測定したい系がどのような状態に準備されているかわからないこともあるわけです.そういうときは密度演算子と呼ばれるものを使って状態を記述すると便利です.それはまた次回考えたいと思います.