役立たずという病
人の役に立ちたい。と常々思っている。
何か困っていることがあれば些細なことでも助けになりたいし、私にしかできないと思うことはとにかくやってあげたいと思う。
まあ実際に役に立ってるので、それでいいのだと思っているのだけど、これらは別にその人の為にやっていることではないのだろうと思う。
私は自分自身が役立たずだとよく感じている。
存在していることの罪悪感とでもいうか、常にいる為の理由を探して生きている。
所謂、自己肯定感が低いというやつだと思うんだけども、この自己肯定感って厄介だなと思うという話である。
役に立つという事に安心する
仕事でもなんでも、役に立っていると実感できる事にものすごく安心を覚える。
ややこしいなと思うのは、あなたはいてくれるだけでいいといった類の愛情のある言葉はなぜかあまり信用ができない。
いや、正確にいうと信用していないわけではないのだけど、安心することができない。何か役に立っていないと不安で仕方なくなるのだ。
これは、役に立つということで自己肯定感を補う技なのだけどかなりデメリットがあって、結局は役に立たなければならないというところから逃れられないということです。
まあ、自分一人の問題ならばこのループの中でなんとかもがきながらやっていくということでもいいかもしれない。
きっといつかはお役立ちレースから降りて、真の自己肯定感を得れるんじゃないかと私思っておりました。
自分一人の問題ならば、です。
人はややこしい生き物なので、いや私がややこしい生き物だからかもしれませんが、自分の規範を他者を測る物差しに使いがちです。
これが最近は最も危険なような気が私はしていて、簡単に差別的な感情と結びついてしまう。
嫌だなと思いつつ、所謂自分より下の人間を見て安心するような反吐の塊に簡単に落ちます。
自己肯定感低いくせに自己能力設定は高いとかいうバグ
自己肯定感は低いのに、実は自分はできない人間だとは思っていない。役立たずだと思いながら、心のどこかでは自分はやれると思っている。
心は矛盾の塊なんでしょうが、このギャップが自己肯定感を育めず、他者を差別してしまう原因になっている気がしてならない。
自分と他人を同じベースで考えられたなら起きない問題なんじゃないかと思うわけです。
皆等しく価値がないというのと、皆等しく価値があるというのは、私の中では似ている概念な気がします。
皆等しく、大きい目で見れば価値がないということは、私にとっては救いになる気がしている。
なぜならみんな価値がなくたって存在していいという確かな証拠になるのだから。
結局のところ価値のあるなしで人を判断するそのこと自体が間違っているのではないかと思うわけです。
とりあえず日々やっていくしかない
考えたところで、一気に自己肯定感を上げることは無理でしょう。そんな簡単な問題ならとっくに解決している。
承認欲求によって満たす方法もあるでしょうが、やめた方がいい気がします。自己肯定感を他者依存で補うことはどこかで破綻します。
筋トレしましょう勢とかもいますけど、自分なりのやり方でいいでしょう。
自分の現在地点を確認し続けることと、他者のことを知って考え続けることと、その日を満足させてやること。
私はとりあえず今はそうやっていこうと思います。