コップ一杯の水「とある英語講師」#1
広島駅から広島港方面、南区皆実町で生まれ、育った。
近くには広島港があり、戦時中には大陸への兵士や物資の拠点として賑わった場所だと聞いている。現在は穏やかな住宅地だが、街を歩けばその歴史の名残を感じることができる。
広島港付近の宇品という町は、交通の便が良く、川や橋に囲まれた独特の風情がある。
路面電車には雨が降っているときくらいしか乗らない、普段は自転車を利用している。仕事には、皆実町の自宅を広電比治山線沿いに走り、広島駅南方面にまっすぐ抜け、広島駅南口の駐輪場に“愛車”を停める、といったそんな日々。平凡というかなんの代わり映えのない生活に不満はない。
広島の人間の特徴とはなんですか?と聞かれたらどう答えるだろう?
僕の答えは、広島弁の独特な方言でも、広島カープ愛でもない、お好み焼きでも、映画「仁義なき戦い」でもない、と思っている。
広島という街は川が多く、学校で学習した地理に出てくる三角州がいくつかある。
太田川しかり、広島の川は海とリンクしていることが影響している。
そのためどこに行くにも川を渡る、つまり橋を渡ると次の町に行くため、近場に行くにも“距離感”を感じているので、つい広島市近郊のことを「市内」と言ってしまう。
「いまどこにいる?」
「市内だよ」というように。広島市内にいるにも関わらず、そう答える、面白くないけど笑ってしまうのは僕だけだろうか。
僕の広島人の特徴の答えは、「広島市近郊を市内」が正解だ。
ロックシンガーの矢沢永吉のアルバム「共犯者」に「ひろしま」というバラードがある。川と海が交錯した描写と矢沢永吉が矢沢永吉になる前の矢沢永吉がルックバックし、フワッと過去を抉るように包み込む歌詞とサウンドは他に例がない曲と思う。
この曲を聴いて以来、「僕は広島人で良かった」と思った。
些か話が脱線したが、「市内」と言われると県外の人が聞いたら、なんだろう?と思うだろうし、そういう人らが「市内」という言葉を頻繁に使うと広島の生活に慣れてこられた証と改めて思う。
あくまで、僕の主観、本当かどうかはわからない。
僕は宮間淳。広島生まれの英語講師だ。詳しく自己紹介をすると、広島「市内」から西方面にJRで約20分ほどに位置する中高一貫の私立女子高に勤めている。担任を持たない英語学習指導のみを担当しているが、なにかとやることが多い。
女子高なので当然、生徒は女子しかいない。
友人に「可愛い女の子たちに囲まれて幸せじゃのー」と言われるが、女子高は男子校以上に男子校なのを知らないようだ。
他に仕事と言えば、全国の中学や高校で使用している英語教材、副教材などの編集に携わっており、翻訳の仕事を広告代理店、広告デザイン事務所から業務委託している。また季節ごとに予備校で現役生の指導と、忙しい。
こういった仕事の依頼はすべてメール連絡で行われる、何か細かいやり取りがある場合はzoomで商談となるが、これらは全て自宅の仕事部屋で行われる。
1995年以降、世の中にパソコンが登場したことでインターネットを通してほとんどすべてのことが完結する、改めてすごい時代だな、と感心する。
匠にパソコンを使いこなすように思っている人も多いが実は相当なアナログ人間。
職場ではいつも頼りになる女性事務の方に同じ質問ばかり聞いているが、何一つ嫌な顔しない人たちばかり、僕のまわりの人たちはこういったいい人が多い。
僕は裕福ではないが、何不自由なく過ごす家庭で育ったせいか、穏やかなというかノホホンとした雰囲気があるらしい。そのため、ある人は話しやすい、親しみやすいという印象で、そしてある人には競争心が欠け、気に入らない存在と思う人もいる。幼少の頃からなので大人になった今になって人間を変える訳にはいかないこちら事情もご理解いただきたい次第だ。
僕は1968年に大学人の家庭に生まれた。
実は逆子で、母は命がけで僕を産んでくれた。
父親は10年ほど前に亡くなったが、父の存在に左右される人生だったように思う。
「昭和元年生まれの父は、旧制広島文理科大学の最後の卒業生であり、学徒動員を経験したと聞いている。
そのまま大学人として残り、広島大学の名誉教授、医学博士だった。
そういう学者の家庭で育ったためか、学業は誰が見ても優秀であるだろう、という他人目線の勝手な固定観念がついて回る。決して学業不良、馬鹿ではないが、好きなことしかまったくしない子だった。ある意味、わがまま、凝り性、マイペースでこだわりが強い性分だったのは幼年期から今も何も変わっていない。
風貌は色白で男か女か見分けがつかなく、極端に背が低くよく苛められた。
自宅から徒歩で少し距離のある国立大学系列の小学校に通っていたが、登下校は地元の小学校の生徒からから「あいつ、黒いランドセル背負っているけど、女みたいじゃのー」と揶揄われる毎日だった。
当時は『多様性』なんて言葉は存在しなかった。僕はただ、からかわれる日々に耐えるしかなかった。
そのような環境が嫌で仕方なかったが、友達は少なかったが、学校は皆勤だった。
意外性の強さを想っていたのか? 僕なりの何かを持っていたように思う。
そんな幼少期を経て、今こうして英語講師として多くの人と関わる仕事ができている。振り返ると、僕の原点はやはり広島にあるのだと思う。