対話か暴力か?歴史が示す決着の道
ロバート・A・ハインラインによるSF小説「宇宙の戦士」(1959年)には以下のようなことが書いてあるシーンがあります。
ひとりの女子生徒がずけずけと先生に言った。「わたしの母は暴力ではなにも解決しないと言っています」
「それで?」デュボア先生は冷ややかに女子生徒を見つめた。「カルタゴの長老たちはそれを知ったら喜ぶだろう。お母さんはなぜ彼らにそれを教えてあげないのかね? きみ自身が教えてもいいのでは?」
女子生徒は言った。「わたしをからかっているんですね! カルタゴが滅亡したことはだれだって知っています!」
「きみは知らないのかと思ったよ」先生は険しい顔で言った。「知っているなら、暴力が彼らの運命を完膚なきまでに決したと言うはずではないのかね? もっとも、わたしはきみ個人をからかったわけではない。許しがたいほどバカげた考えを軽蔑しただけだ──いつもそうしているのでね。〝暴力はなにも解決しない〟などという、歴史的に見てまちがっている、しかも不道徳きわまりない主張にしがみつく者に対しては、ナポレオン・ボナパルトとウェリントン公爵の幽霊を呼び出して議論させてみたらいいと忠告することにしている。暴力は、むきだしの力は、ほかのどんな要素と比べても、より多くの歴史上の問題に決着をつけてきたのであり、それに反する意見は最悪の希望的観測にすぎない。この基本的な真理を忘れた種族は、常にみずからの命と自由でその代償を支払うことになったのだ」
武力を手放す恐ろしさ:歴史が語る冷酷な真実
そもそも「対話か暴力か」の二元論だけで考えることそのものが正しいアプローチなのか。
解決という定義が本来必要なのですが、歴史を振り返ると、対話でも交渉でもどのような手法を取っても「解決」などということは起こったことはなく、すべて「決着がつく」という表現が基本的には適切なはずです。
「暴力では何も解決しない」という言葉は、多くの人々が共感し、信じる理念です。確かに、暴力そのものが問題を根本的に解決するわけではなく、対話や交渉、理解によって初めて真の解決が得られることも多いでしょう。しかし、歴史を振り返ると、武力の行使がしばしば「決着」という決定的な役割を果たしてきた事実も無視することはできません。暴力を否定する一方で、武力を持たないことの代償として命と自由を犠牲にする恐ろしさを理解することも重要です。
歴史は暴力によって多くの問題が解決されてきた証拠で満ちています。カルタゴの例を見ても明らかなように、ローマの軍事力がカルタゴを滅ぼし、その後の地中海地域の支配を決定づけました。カルタゴは、ローマとの長い戦争の末に滅び、その後、ローマは地中海地域での覇権を確立しました。この出来事は、暴力が歴史の流れを決定的に変える力を持っていることを示しています。もしローマが武力を行使しなかったならば、カルタゴとの戦争がどのような結末を迎えていたかは不明ですが、おそらくローマの支配は確立されず、地中海地域の歴史は全く異なるものとなっていたでしょう。
また、第二次世界大戦におけるナチスドイツの台頭とそれに対する連合軍の反応も、暴力の役割を考える上で重要な事例です。ナチスの暴力的な拡張主義に対して、連合国は最終的に軍事力を行使することによって戦争を終結させました。ここで注目すべきは、もし連合国が武力を行使せずに交渉だけで解決を試みていたならば、どのような結果になっていたかということです。ナチスの支配がさらに広がり、多くの命が犠牲になっていた可能性が高いのです。戦争の結果、ナチスドイツは敗北し、ヨーロッパには新たな秩序が築かれましたが、これは武力が問題解決において重要な役割を果たした一例です。
もちろん、暴力の行使が常に正当化されるわけではありません。むしろ、暴力の行使は最終手段であり、その使用には慎重であるべきです。しかし、武力を全く持たないという選択肢は、それ自体が大きなリスクを伴うものです。国家や集団が武力を放棄すれば、その空白を悪意ある勢力が利用する可能性があります。その結果、無防備な人々が危険にさらされ、自由や生命が脅かされるのです。
また、暴力が解決策として機能する背景には、力の均衡という現実があります。冷戦時代の米ソ関係はその典型例です。核兵器の存在によって両大国は直接的な軍事衝突を避けることができました。このように、武力が均衡を保つことによって平和が維持される場合もあるのです。核兵器という究極の武力が存在することで、互いに大規模な戦争を避ける抑止力が働きました。冷戦時代には、いくつかの局地的な紛争はありましたが、大規模な世界大戦は避けられました。この事実は、武力の存在が平和を維持するために重要であることを示しています。
さらに、暴力の役割を無視すると、歴史的な現実を誤解する危険性もあります。例えば、独立戦争や革命戦争において、武力の行使が新たな国家や体制を生み出す原動力となったことは多々あります。アメリカ独立戦争やフランス革命がその典型例です。これらの歴史的出来事は、武力が新たな秩序を確立し、抑圧からの解放をもたらす場合もあることを示しています。アメリカ独立戦争では、植民地がイギリスからの独立を勝ち取り、新たな国家を建設しました。フランス革命では、旧体制が打倒され、新たな共和制が樹立されました。これらの事例は、暴力が歴史的変革の手段として重要な役割を果たしたことを示しています。
暴力を否定する立場からは、これらの事例も対話や交渉で解決すべきだったと考えるかもしれません。しかし、歴史的には、対話や交渉だけでは解決が難しい状況も多く存在しました。武力の行使がなければ、多くの抑圧的な体制が存続し、自由や人権が侵害され続けた可能性があります。これは、暴力の行使が必ずしも望ましい手段ではないにせよ、現実的な解決策として機能する場合があることを示しています。
おわりに
暴力を否定することは道徳的には正しいかもしれませんが、現実的には武力の存在が平和や自由を守るために不可欠であることも理解しなければなりません。暴力が何も解決しないと考えるのは希望的観測に過ぎず、歴史が教える冷酷な真実を忘れることはできません。武力を持たないことの恐ろしさを認識し、平和を維持するための現実的な手段としての武力の重要性を理解することが、現代社会における重要な課題なのです。
私たちは、暴力の行使を正当化することなく、その存在意義を認識し、平和と自由を守るために現実的な対策を講じる必要があります。歴史の教訓を忘れずに、武力の持つ力とその限界を理解し、より平和で公正な世界を築くための道を模索していかなければなりません。