好古家って何ですか?|企画展「榧園好古図譜」・国学院大学博物館
なにやら難しい漢字が使われている企画展名。
榧園好古図譜と読むそうです。
これを作ったのは明治時代の「好古家」。
考古学者でもなく好事家でもない、「好古家」。
あまり知られていないその仕事ぶりは、どんなものであったのでしょうか。
好古家とは
まだ考古学が確立する前の時代。考古に興味を持った人たちが、古器物をコレクションし独自に調査研究をしていました。学者でもない彼らのことを好古家と呼ぶといいます。
特に幕末維新期から明治時代にかけて、全国にネットワークを広げて活躍する「好古家」が各地にいたそうです。
今回の展覧会では、埼玉県で2代に続く好古家「根岸家」のコレクションや華麗な交友関係、記録や展示施設などが紹介されています。
この「榧園好古図譜」は「根岸家」による考古の記録です。
収集、記録の中身
蒐集されたのは埴輪や縄文土器、土偶、鏡類や須恵器、地図、古文書…と時代も様々な幅広い考古物です。
それらを正確に写しとり記録として残しました。
現在の研究から、右の縄文土器は偽物であることが分かりました。恐らくそれを知らずに蒐集し、他のものと同様に記録に残したと推測されています。
皮肉にも、この時代に考古や美術の贋作が出回っていたことを証明する資料となりました。
コレクションは木造の「回遊型の陳列所」に展示されていました。今で言えば私設博物館といったところでしょうか。
縄文土器の破片はこのように板に括りつけ展示されていました。
交流した人々
「根岸家」は政治や教育にも尽力した名家でした。膨大なコレクションなどが評判を呼び、同じような考古に興味を持つ人々が訪れました。その華麗な交友歴が伺える資料が多数残されています。
H.v.シーボルト
長崎・出島のオランダ商館医であったP.f.vシーボルトの息子。日本の考古学、民俗学に関する研究を進め、それらをまとめた論文をドイツ等で発表しました。
また主にヨーロッパの考古学を紹介する「考古説略」を作成し、日本で初めて「考古」という言葉を使った人物とされています。
「ギリシアの土偶」はH.v.シーボルトが根岸家を訪れた時の贈り物。
E.S.モース
1877年(明治10年)大森貝塚を発見したモースは、当時は東京大学の教授で動物学、生理学の学者でした。考古に留まらず、日本の陶磁器や工芸品、生活用品等の幅広いコレクションでも知られ、記録としての書籍を発表しています。
松浦武四郎
蝦夷開拓の命を受け、北海道の名付け親と知られる一方で、古器物の収集家でもありました。各地の「好古家」と交流をもち、自ら書籍を発表しています。
「アイヌ舞踏の図」は、アイヌ民族との関わりで知ったと思われる、アイヌの儀式を描いたものです。
蓑虫山人
放浪の画家と言われ、生活用具一式を背負い日本全国を歩き各地にその足跡を残しました。考古学に造詣が深く、青森の亀ヶ岡遺跡を発掘したことでも知られています。
「埴輪群像図」は、根岸家の埴輪がモデルだと考えられています。
好古家の成したこと
考古学の体形が成り立つ前の江戸や明治期には、「根岸家」のような実業家などが中心となって考古物の蒐集、研究が行われてきました。
大正になると学者による研究が行われるようになり、第二次世界大戦後には皇国史観によらない研究も始まりました。その後は科学分析も行われるようになり現在に至ります。
今回の企画展は、殆ど知られていない好古家の活動を明らかにしたものです。
日本の考古学の下地を作ったとも言えるのが、この根岸家に代表されるような全国各地の好古家であるようです。
最後までお読みくださり有難うございました。