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世界遺産になった縄文遺跡群を廻る旅 - しゃこちゃんが生まれた亀ヶ岡石器時代遺跡へ行く
木造駅のしゃこちゃんに別れを告げて、10㎞程離れたしゃこちゃんの出土地、「亀ヶ岡石器時代遺跡」へ向かいます。
津軽の田園地帯が広がる一本道、
山々の峰のリズムに合わせて雲が連なっています。
収穫を終えた田んぼには、クルクルっと丸められた稲藁、
美味しい新米と牛のえさ、田んぼは私たちの食の源なんだ、って感じます。
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気持ち良く車を走らせていると、
見えてきたのは、一人ぽつんと佇むしゃこちゃん。
ここが「亀ヶ岡石器時代遺跡」です。
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〝JOMON JAPAN〟
黄門様の印籠のように見えてきた!
「遮光器土偶のしゃこちゃん」は、この左後方より広がる低湿地から出土しました。
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世界遺産になったことで施設も充実。
あら、ちょっと大仏様みたい。
それも不思議ではないですね、縄文時代の神にも代る存在であったのですから。
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「大型遮光器土偶」(しゃこちゃん)は、明治20年(1887年)この地で出土し、昭和32年(1957年)に国の重要文化財になりました。
今やすっかりしゃこちゃんで有名になったこの遺跡ですが、
実はこの「亀ヶ岡」という地名、
江戸時代から全国でその名を知られていたそうです。
「亀ヶ岡」の名称が最初に広く知れ渡ることになったのは、民俗学の祖として知られる菅江 真澄の青森紀行記であると言われています。
江戸時代、寛政(1.789~1.801年)年間に、「亀ヶ岡」の遺跡地と出土品を絵図として残したのです。
その後、文政(1,818 ~ 1,830年)年間になると、津軽藩士や江戸の好事家の間で、その遺物が珍重されるようになったとされています。
このように既に江戸時代には、「亀ヶ岡」は優れた土器などが出土する場所として有名になっていました。
またその評判は国内に留まらず、土器などが長崎の出島からオランダ商館を通じて、ヨーロッパへも流出したとされています。
一方、アメリカ人のモース博士が大森貝塚の発見したのは、明治10年(1877年)。
この「縄文の幕開」と言われる時よりも少なくとも半世紀前から、実に今から200年以上も前から、「亀ヶ岡」の名は知れ渡っていたのです。
では、「亀ヶ岡」はどんな土地だったのでしょうか。
江戸時代から遺物が出土し、その後も繰り返し土器や土偶、装飾品等々が出土するのは、この地域に低湿地帯が広がっていたことにもあります。
湿地であることで、水分を含んだ土が遺物を守り腐らず残っていたのです。
現在の「亀ヶ岡石器時代遺跡」周辺の地図を見てみましょう。
青い部分(標高5メートル以下)がとても広いことがわかります。
そして「亀ヶ岡」のある緑の部分(標高50~100メートル)から西側が、南北に長い台地になっています。
このように今でもとても低い土地が多く、周りには沼が点在している地域です。
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「縄文海進」が最も進んだ頃(約7,000~6,000年前)は、現在のこの青い部分が海であったようです。
そして「亀ヶ岡石器時代遺跡」のある場所は、陸がもう少し西(赤い点線部分まで)に広がっていたと推測されています。
低湿地と聞くと、湿気が多く暮らしにくいイメージがしますよね。
でも縄文時代は、小さな川が流れ込む湖や沼が点在し、海にも近く、小高い台地があることは、生きていく上で一番大切な食料の確保しやすい住みやすい場所であったようです。
ここは、遺跡の中の小高い場所にある縄文時代の墓地です。
この遺跡では全部で110基以上の土抗墓が残されています。
土抗墓は、楕円形などに地面を掘り起こし遺体を埋葬した墓で、墓の中には土器や土偶、装飾品なども一緒に埋められることもありました。
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台地の上にはこのような土坑墓と住居が点在し、低い湿地は生活のゴミや土器や土偶などの捨て場になっていたと考えられています。
この中には、漆塗りの器や装飾品が多数含まれていることから、単なるゴミ捨て場としてではなく、何らかの儀礼の場であったとも推測できるそうです。
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不思議なことに、台地には多くの土坑墓があったにも関わらず、同時期の竪穴住居跡はわずか一軒のみしか確認されていないそうです。
まだ台地のどこかに眠っているのでしょうか。
周辺には沼があちらこちらにあります。
どこも周囲の土地からはなだらかな傾斜で繋がっていて、当時も沼を利用しやすい地形であったようです。
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この沼の前に「木造亀ヶ岡考古資料室」があります。
この資料室からそう遠くない場所に「縄文住居展示資料館カルコ」がありますが、現在改装中。
今後はそちらが充実するそうで、この資料室は少し寂しい印象です。
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資料室を少し覗いてみましょう。
これが「亀ヶ岡」を代表する土器です。
土器に縄文を施した後にそれを摺りけし、そして研磨し、美しく光沢の帯びた肌に仕上げられています。
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この土器は上半部が雲形文様になっています。
「しゃこちゃん」にそっくりの体を持つ土偶がいます。
もし…はないけれど、
もし顔があったら、国宝級になっていたかもしれませんね。
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ここの展示資料の多くが、「個人委託品」。
今でも、個人の敷地内から土器の破片などが見つかっているそうです。
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と思うだけでワクワクします。
こちらは、遮光器土偶でしょうか?
しゃこちゃんとは随分違う顔立ちです。
年配の土偶さんにも見えますね。
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空洞になっていたのが分かります。
江戸時代から知られる遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡ですが、
その全容はまだまだ見えていないようです。
ひょっとすると、
新たな「しゃこちゃん」が誕生!なんてこともあるかも⁉しれませんね。
縄文旅はまだまだ続きます。
◆参考資料
世界遺産になった縄文遺跡 岡田康博(編) (株)同成社
縄文土器ガイドブック 井口直司(著) (株)新泉社
最後までお読みいただき有難うございました。