音楽
グレープ「精霊流し」、世良公則&ツイスト「銃爪」、高田みづえ「硝子坂」、研ナオコ「六本木レイン」、安全地帯「ワインレッドの心」など。
当時母が良く聴いていた歌の数々。
緑の冷蔵庫の上に黄色のラジカセが置いてあった。掃除をしないから、油まみれだった記憶がある。そのラジカセは始終何かしらの音楽を流していた。
母は音楽が好きだった。家事を珍しくこなしているときも、流れている歌と一緒に歌ったり、鼻歌を重ねたりしていた。また、鉛筆で絵を描いたり、帽子やセーターを編むのも得意だった。
これくらいしか母のいいところは思い浮かばない。正確にいうと、母の記憶はもうおぼろげで忘れていることの方が多いのだろう。
母がいなくなって、1年くらいは母のことばかり考えていた。
捜索願を出さず日常をすごしている大人たちを観察しているとおよそ察しがついた。母は名古屋の実家にいるのだろうと。
自宅から名古屋に行ける電車が発車する駅まで、自転車でどのくらいかかるか測ってみたり、名古屋までの時刻表を眺めてみたり、もし母が私を引き取ってくれるなら、なんという名前の学校に通うのか調べたりしていた。
父や祖母には、この考えを打ち明けたことはなかった。父と母。どちらと一緒に生きていくのか、あとからでも問われたことはない。
どんな形であれ、父は「子供たちを捨てていった人間」には私たちを渡したくなかったのだと思う。
1年しか母のことを考えなかったのは理由がある。
私と姉に母から手紙が届いたのである。シンプルな白の封書でそれぞれのあて名が書いてあった。中学までしか出ていない母の字のつたなさが鼻についた。
はさみを使わず、手でちぎって開けた。なんて書いていあるのか心がはやったのか、はさみを使うほどのモノでもない、と思ったのかは記憶がない。
その手紙には私を褒めた内容が少しと、これから頑張っていきなさい、ということが書かれていた。その中に誤字が一ヶ所あった。
私にはその誤字が母の愚かさ加減を象徴しているように思えて、壮絶に嫌気がおそってきた。
姉への手紙にはなんと書いてあったのかは知らない。聞かなかったと思う。そして姉がどう思ったのかも、今に至るまで聞いたことがない。
今、思う。
私の中には、確実に母の血が流れている。だから好む音楽が一緒だったり、趣味が同じだったりする。
だが、大きく譲ったとしても、母の思い出を引きずっているわけではない。
私の根本的な嗜好が母譲りだったというだけと思うのだが、見た目も母に似ている以上、父や祖母には気分の良いことではなかったのだと感じる。
それは昔も今もどうしようもないことだと思う。誰に言われるでもなく母の細胞の多くを宿して生まれてきただけなのだから。
何かが間違っていたとするならば、似ていることを父や祖母にとって「気分の良いことではない」と自分自身で認めてしまっていたこと。
もっと堂々と「何がいけないのか」と主張すればよかったのかもしれない。
繰り返し言うが、今母のことを思い出しても、フラッシュバックや引きずる気持ちはない。ごく自然な考えなのかと思う。
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