咀嚼
父には5歳年下の弟がいる。
東京の三流大学を出、地元の三流企業に就職している。
生前贈与で実家から少し離れたところに、祖父母に家を建ててもらった。
それにも関わらず、私が住む「自分の実家」に毎日夕飯を食べにくる。
弱いくせに酒も飲む。飲むと気が大きくなるのか、普段気が小さい分、たまっている鬱憤を私に向かって吐く。
内容は、母のことや、私の容姿のこと、私が受験しようとしている高校のことなど。
弟の吐く言葉に真実などないし、当時30過ぎたいい大人が10代の小娘に暴言を吐くのはどこからどう見ても滑稽なはずだった。
だが、私が住む家の人間には滑稽には見えなかったようだ。
「そうそう、お前の言うとおりだね。」
「お前は大学まで出てるんだから、そりゃあ、自慢の息子だよ。」
「お前みたいに頭が良くないんだから、仕方ないんだよ。」
この頃の祖母の私への口癖は「お前は、おばあちゃんが死ぬまで、我慢しなさい。」
自分の息子の物言いがおかしいのがわかるのか、そしておかしくても孫より息子のほうがかわいいのか、いつまでも「母親」でいたいのか。
最終的には、わたしにとってどちらでも良いことだった。
ただ、祖母はいつ死ぬのかなあ、とだけ思っていた。
弟の所業のなかで、一番気持ちが悪かったのは咀嚼だった。
モノを口に入れると、盛大な咀嚼音が聞こえるのだった。
食べ物を入れると、
くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ。
飲み物を入れると、
ごくごくごくごくごくごくごくごくごくごく、ぷはー。
なんでそんな大きな音が出るのか、再現してみようとしたほど、まったくその仕組みがわからなかった。
ばい菌が群れをなして口の中に入り、それが咀嚼される音のようで、食欲がなくなるどころか、頭痛がしたり、めまいがして、自分の食事を終了せざるを得なかった。
それでも、その音がいやだと、言ったことはある。
すると、弟は、もっと盛大にばい菌を口の中に放り込んだのだった。耐えられぬ。
今、思う。
子供でも大人でもやっていいことと、やってはいけないこと。
言っていいことと、言葉では表してはいけないことが、世の中にはたくさんある。
私が住んでいた家では、そのルールがなかったんだな、としか思えない。
よく生きていたと思う。
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