祖母
母がいなくなって約半年。
父は出張が多い仕事をしていた。忙しい中、1回だけ豚汁を作ってくれたことがあった。それはソースが隠し味らしかったが、実際はソースの風味が全くしないおいしい豚汁だった。朝は食べる習慣がなく、昼は給食。
夜の食事は主に祖母が、雨の日も雪の日も徒歩5分の父の実家から通ってきては作ってくれた。
祖母は優しかったが、恩着せがましかった。そして「母親の鏡」のような人だった。
「母親にとって子供は永遠に愛すべき存在。いつまででも手をかけてあげたい。」そんなことをよく言っていたが、同時にこうも言っていた。
「お前たちにはお母さんはもういないから、頑張って生きていきなさい。」
祖母にとって父は何歳になっても愛しいわが子。私たちは母親がいなくなった「かわいそう」な孫、だから強くなれ。
その認識は私にとってはひどくわずらわしかった。
そして時折、私の手や顔を見つめながら「お前はお母さんにそっくりだね。」と笑った。
私にとっては忘れなければいけない人なのに、そのたびに思い出させた。祖母はそれに気づいていなかった。
また私と2つ上の姉の取り扱いにも違いがあった。
後日知ったことだが、母は完全にいなくなるまでに過去に何回か姿を消していたらしい。そのたび、まだ乳飲み子だった私だけを連れて行ったのだという。
祖母にしてみれば、「お姉ちゃんは、お母さんに何回も捨てられたかわいそうな子。お前は1回だけなんだから、その分頑張りなさい。」
今、思う。
祖母にはたくさん世話になった。しかしながら、本当に、わけがわからないことを仕込まれてしんどかった。そのゆがんだ思想を逃げ場のない状態で受けたためか、「心」の存在を早いうちに認識し、かつ「心の拠り所」がないまま子供時代を過ごした。
正直に言うと、私が19歳のときに実家を出た後、83歳で祖母が永眠したときには、心の中で大きくガッツポーズをした。涙も多少は流れたが、それはあまりに窮屈に縛られたままだった心が緩んでほどけたからなのかもしれない。自分の中の歴史がひとつ終わったと感じたものだった。
祖母は「家族なんだからいいじゃないの」というのが口癖だった。
家族だから、何でも許せる。心が休まる。話が弾む。お互いの気持ちが分かる。
もちろん、読者の誰かにとってその通りであれば、何の問題もない。しかし実際はそうとも限らない。このことに気づいているのとそうでないのとはかなりの違いがある。
自分を労われるのは結局のところ自分しかいない。自分を守るためでもある。甘えではない。
苦しいときは、その苦しさを認めること。強くなる必要なんてない。
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