部屋

祖母の「頑張って生きていきなさい。」は言い換えれば、愛情をかけているつもり。だが、私にとっては非常にわかりにくく、伝わりもしなかった。

しかしながら、周囲の人間には祖母の思惑がなぜか伝わり、周囲の評価は「おばあちゃんがいてくれてよかったね。」というものが大半。

事の始まりから私が19歳になって実家を出るまで、ずっと大人たちが主役の生活だった。改めて思い返してみても、誰も私の心の内を覗こうとした者はいなかった。

母がいなくなって1年もたたないうちに、父の実家に移り住むことになった。ちょうど2階の3部屋が空いていたので、それぞれの個室として割り当てられた。

階段を上がってドアがある部屋が姉。和室の6畳間が父。私の部屋はというと、一番奥の部屋。この部屋は父の部屋に入り、経由しないとたどり着けない位置だった。

この割り当ての理由は「お前はまだ小さいから。」
この理屈は私が中学生になっても、高校生になっても、卒業しても、存続することになる。

部屋にはすでに置かれていた大きいタンスがあり、ベッドと学習机をいれるといっぱいになった。落ち着いて過ごせる場所にはならなかった。

私はこの頃から、次第に少し特殊な「潔癖症」になっていった。祖母や父が触ったところ、座ったところ、歩いたところに、触れてはいけない「ばい菌」があるような気がしてならなかった。触れられないのは、家族が触れたものだけであって、一歩外に出ると、どんなものでも触れるし、汚いと思うこともない。
結果的には、自分に割り当てられたイビツな部屋だけが、自分を守る城になろうとしていた。

また風呂にはもちろん「ばい菌」がたくさんいたが、「抑えている涙を溢れさせる場所」という意味合いが強かった。すでに冷め始めているお湯に入りながら涙を溢れさせる作業は、のちに家を建てて引っ越しをし、その家を出るまで続いた。

今、思う。
生まれた順番なんて自分で決められないし、徐々に自分が大人に近づいていくのを実感していたが、そんなものは私が感じていた違和感、つまり「理不尽さ」にしてみれば、何のことはない、非常に小さいものだったのだと感じた。また「ばい菌」を感じ始めたことは、すでに躁うつ病の症状が出ていたのでないのかと自分では思う。

ほかにも、どうしても一人になりたくて、部屋に閉じこもるけれど、姉が流す音楽や父が観ている戦闘シーンが多い映画の音など、なにかしら耳に入ってくるものが常にあった。そんな時は頭痛がしたり、めまいがしたり、耳鳴りがしたりといった症状が出ていた。
それを父や祖母には言うことはなかったし、気づかれもしなかった。

どんな状況であれ、言葉を紡いで声に出すことは大事だと思う。どうせ、と諦めてしまったら、可能性は0のまま。
叫んで、泣いて、怒鳴って、暴れて、モノを壊したりしたら、何か変わっていたのだろうかと、少し二ヤつきながら妄想したりする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?