民藝旅 vol.2 沖縄 \プロローグ/
4月某日。
ぼんやりと天井を眺めながら、つぎは沖縄に行こう、と思った。
柳先生が「民藝四十年」で取り上げた沖縄。大学時代を過ごした沖縄。
東堂は貧乏学生だった。たこ焼きの具材は、コンニャク。詰め放題100円のもやしと、ゆし豆腐ラーメンが好きな学生だった。
手仕事に興味はあったけれど、ヘアゴムなどの小物を買うだけで精一杯。
「窯元でピザパーティーがあるから来ませんか?無料ですよ。」という後輩の誘いに舌舐めずりしながら、はじめて那覇市壺屋に足を踏み入れたのは、今から8年前。
知的好奇心より、食い気の強い20歳の頃だった。
やちむんって素敵だな、と思いつつも、ウインナーが216円の時をねらって買い物に行く学生には高嶺の花。ため息で窓ガラスを曇らせながら大学を卒業した。
時は過ぎて、2019年。
年始をにぎわせたお年玉企画から始まり、いろいろなご縁で「民藝」をテーマに自由研究をする機会を得た。大学生の自分にこのことを教えたら、どんな顔をするのかな。「まずは奨学金返そうよ」とか夢のないことを言われそうなので秘密にしておこうと思う。
4月は鳥取・島根・愛媛を訪れて、「民藝」という言葉は多様性のある言葉であることを知った。また、自分にとっては「生き物の匂いがするもの」という言葉が今のところしっくりくることを見つけた。
さて、なぜ次は沖縄なのか。沖縄と民藝にどんな関係があるのか。
ドヤ顔をしながらこそこそと柳先生の本「民藝四十年」を開いて、ヒントを探ってみようと思う。
沖縄は日本文化の宝箱?
沖縄を訪れた人は、真っ赤な首里城や、琉球王国の王が中国を訪れる風習から「沖縄って中国っぽいな」と思うかもしれない。わたしも、その一人だった。
柳先生は「琉球の富」の「序章」で、沖縄の地理的特徴と風景について書いている。
沖縄は地理的にはむしろ大和の本土よりも、支那の福州に近いので、さぞ支那の影響が大きいだろうと想像されるかもしれませんが、事実は逆で、その言語も風俗も建築もほとんど凡てが大和の風を止めているのです。それ所ではなく、日本の何処へ旅するとも、沖縄においてほど古い日本をよく保存している地方を見出すことはできません。粗忽にも沖縄を台湾の番地の続きの如くおもってはなりません。
日本の風俗史や、中国について、ほとんど無知なので検証することができず「そうなんだ〜」という感想しか持てないのが悔しい。けれど、柳先生がいうんだから、きっとそうなんだ。
琉球語については柳先生の別の本「蒐集物語」に一文があったので引用してみよう。
「やあたい、かうみそうれ」。「やあたい」は「ようてい」とも聞こえる。もしもしという呼びかけである。「かうみそうれ」は「買い召し候え」の沖縄音で、誰も知る通り、沖縄では日本の鎌倉足利時代の日用語を今も用いる。
柳先生が沖縄を推す理由は、ここにあると思う。日本の古い風俗が残り、息づいていたのが沖縄だったんだ。たぶん。
下克上の仕掛人
爽やかなキラキラパラダイス!というイメージのある沖縄。しかし昔、沖縄は差別の対象だったようだ。
不幸にも私たちは余りに長い間、沖縄の貧しさについてのみ聞かされて来ました。こんな貧乏な島はなく、島民は文化に 立ち後れて、逼迫(ひっぱく)した生活に悩んでいることを聞かされていました。
後ほど紹介する、与那国島の“うぶる”作りのふみえさん (89)は、小学生のときに東京から親族のいる沖縄へ疎開してきた。その時「台湾に行くの」と東京の人に言ったそうだ。それほどまでに、沖縄は避けられていた過去があるらしい。
柳先生は、沖縄文化を知ることでマイナスの先入観を払拭したい思いがあったのかもしれない。民藝のはじまりである、「下手物の美」といい、柳先生は、先入観で正しく評価されなかった美しいものの価値を上げる、ブランディングのスペシャリストだ。
人々は今までに余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私たちを明るくし、島の人々を明るくさせるでしょう。私たちは実に多くの富について語り合いたいのです。沖縄について嘆く人々のために、またこの島について誤った考えを抱く人々のために、また自国を余りにも卑下して考える土地の人々のため、そうして真理を愛する全ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。
お墓ファースト?
柳先生は著書「民藝四十年」で「琉球の富」という沖縄についての章を設けている。手元の岩波文庫版だと53ページ。数字に疎いので文字数はわからないけれど、結構な量だ。
内容は「序」「墳墓」「首里」「本葺瓦」「琉語」「和歌」「音楽」「舞踏」「琉装」「染物」「織物」「陶器」「彫刻」「跋」の14で琉球の文化について触れている。中尾彬さんと同じくらい沖縄愛が濃い。
民藝についての本で、お墓から語り始めるあたり、さすが柳先生。よくわからない。
しかし、柳先生は宗教哲学者で、民藝の美しさは信仰から生まれることに触れているから、お墓が先頭にご挨拶するのは自然なことなのかもしれない。
精霊への信仰こそ沖縄人の凡ての生活を支配している原理なのです。このことへの理解無くして沖縄の美を解することは出来ないでしょう。
地方があるから楽しいニッポン
日本語にはたくさんの方言がある。学校で学ぶのは標準語だが、それを読む先生のイントネーションはあざやかなお国訛りだったりする。もちろん、わが茨城県は首都圏ながらも素晴らしいお国言葉の里で、田舎っぺと讃えられたりもする。
あるとき、生まれも育ちも東京の友人に言われた。「いいな、方言があって。」それはもう寝耳に水。わたしはネイティブイバラキアンとして、日々なまりを直して東京生活に溶け込もうとしている時だった。
彼女がいうには、「東京にはなにもない。」そうだ。江戸っ子訛りはあるにせよそれは下町文化で、彼女の育った市街地には人情溢れる「てやんでぃ」が聞こえないらしい。
考えてみれば、地方出身者は標準語とお国言葉のバイリンガルになれる可能性がある。自分のルーツにオリジナリティがあることが、文化の最先端であり、標準とされる東京都民にとっては羨ましいものであるらしい。
民藝旅vol.1でふれた鳥取民藝美術館にある柳先生の書を思い出した。
人は、都を目指してすすむけれど、自分の立つ地を見たのか。
世界最先端の東京はカッコいいし、やっぱり憧れる。
けれども、地方が自分を捨てて東京と同じになろうとしたって、それは東京のパチモンであり、2テンポ遅れの最先端。
そしてあるとき、東京にもなれず特色も消えた、空っぽのさみしい自分に気がつく時が来る。それは茨城や千葉の国道沿いが、どこもかしこも同じチェーン店しかない景色に似ている。
地方性を捨ててしまった後に残るのは、寂しさだけ。地方の多様性があるからこそ、私たちの国は美しく、たのしく、いつまでもあきることがないのだと思う。
地方性は日本的なるものを築く重要な基礎なのです。
ユニクロ人の憂鬱
東堂のクローゼットを紹介しよう。70%はユニクロ。タイツはしまむら。靴下は無印良品。グローバルでフラットな一般着。森に潜むダンゴムシのごとく、まったく目立たず、服装から出身地を当てることは不可能である。
その昔、日本の着るものの素材や模様は地方性が豊かだったらしい。わたしは当時を知らないので、柳先生の本から想像してみる。
京の町々を歩くと、珍しくも紺絣の着物に前垂掛(まえだれかけ)、頭には手拭(てぬぐい)、手には手甲(てっこう)、足には脚絆(きゃはん)に草鞋(わらじ)の出立で、花や柴木を頭に山と載せ、または車に積んで売り歩く女たちの姿を見られるでしょう。この大原女(おわらめ)の名は、京の名と共に人々に聞え、この旧都の風情をいや増さしめていることは誰でも知るところです。〜中略〜地方に見られる日本の風俗として、美しいものの一つです。
まず、大原女を知らない。そして、着ているアイテムがどんなものかわからないから、漢字も読めない。ポカーンと口をあける感覚は、最新流行のアイテムがテレビで紹介されているのを見たときと同じだ。「ジレってなんだろう。意地やけてるの?」みたいな。
柳先生によると、日本の地方の特色ある風俗が残っているのは北の国々らしい。
その得意な風俗は北方の気候、風土、材料等から必然的に要求されて来るのです。
でも、仙台出身の友達も、北海道出身の友達もユニクロのファンだったし、彼女たちが蓑に草鞋でキメている姿は見たことがない。
どんな身形(みなり)でも地方的に特色のあるものは、どこか美しいものです。そうしてこういう特色あるものが地方から凡て消えてしまったら、その国民の風俗は眠い醜い凡庸なものに沈むでしょう。地方の風俗は国民服の単位なのです。それらのものを有たない国はやがて独自の文化を失う国となるでありましょう。
柳先生の論理で行くと、日本文化はすでに黙示録のラッパが鳴り響き、終末の地底に沈んでしまっているらしい。けれども、衣服だけが日本文化ではないし、こぎん刺しなどは装飾としての地位を再び得た。時代に合わせて柔軟に形を変え生き残っているのだ。
また、陶磁器の豊かさは健在だから、第七のラッパはまだ吹かれていないのではないか、と希望を持ってみる。
話を琉球に戻すと、日本の衣類文化の中で、沖縄は特別らしい。
琉装は日本の風俗の正系であり、しかも地方的特色の最も鮮やかなものです。これこそ琉球が有つ真に正しい有ち物の一つと言わねばありません。
とくに、紅型にふれて次のような賛辞を残している。
沖縄の人たちはその模様において、自然の鳥をさらに取りらしくさせ、花をさらに花にし、山や川や波や建物を世にも美しいものにしました。我々はその模様や色彩でさらに自然お美しさを教わるのです。
そして、織物については…
沖縄の織物で最も驚歎すべきものは絣の類です。つづいては浮織の類なのです。絣は西洋で全く発達しなかった手法であって、東洋独自の織物として世界にその名が響く時はくるでしょう。そうして絣は特に日本がよく、その日本のなかで最も見事なものは琉球のものです。特にあの色絣に至っては天下無類だと呼んでよいのです。
The best of the best of the best 級の褒め言葉である。
この後、読谷山花織について触れているのですが、現地を取材をしてみるとどうも、状況がちがうことがわかってきた。 真相は、読谷村編をお楽しみに。
やちむんLover
我が家にはやちむんが多い。先述のピザパーティーを開催した育陶園さんのファンなのだ。
やちむんのいちファンとして、柳先生が推しを褒めている文章を読むのは心地よい。むふふと口角を上げながら「陶器」の項目を開く。
中で琉球の壺屋は忘れられない窯場のひとつです。おそらく日本中で伝統的な窯場としては第一に推すべきものでありましょう。
なんて甘美な響き。
これはますます、沖縄の焼き物の状況を調べに行くことが楽しみ。
全国にいるやちむんファンのみなさまも、柳先生の「民藝四十年」を読むと、どこか誇らしくて晴れやかな気持ちになるでしょう。
最後の一文を読むまでは。
琉球よ、栄あれ。 (1939年)
そう。以上の文章は第二次世界大戦前に書かれた文章なのです。
みなさん、ご存知の通り。沖縄は第二次世界大戦で激しい地上戦が行われ、一度すべてが焼き尽くされました。織物で触れた読谷村は、アメリカ軍が最初に上陸した土地です。
さて、柳先生が愛した手仕事の国・沖縄は、戦後どのように復興し、発展を遂げたのでしょうか。現在の沖縄文化はどのように立ち上がったのでしょうか。
そしてひょんなことから、柳先生が訪れていない(であろう)与那国島を訪れました。
見えない糸に導かれるように巡った #民藝旅 沖縄編、はじまります。