今までは、ふと思い立ったことを書き連ねていた。 しかし、何かを発信するのであれば誰かの役にも立ちたいと思った。 そこで、ネットで必死に自分と同じ境遇・同じ悩みを持つ人を探す自分を思い出した。 自分と似ている人が悩みを誰かに打ち明けて解決する様子をいつも見たかった。自分を投影して気持ちを軽くしたかった。 自分と1から向き合うことにはあまりにも多くのエネルギーが必要だから、ヒントを外に求めていた。 私がヒントになりたいと思った。 私が持っている悩み、その原因を掘り下げて、心
責任が負えないうちは黙っておいたほうがよい。
人生は能動的に何かを起こす一方的なものではなく、起きたことに対してどのような態度で対応するかという環境(神、超自然的なもの)との相互的なものなのかもしれない。だからこそいつも喜び、感謝する、即ち幸せでいることが可能であり最も理にかなっているのかもしれない。
「神はいないのか」「神は非情だ」 多分これは的はずれな怒り。 全てはフラットで、人間が出来事に意味付けをしているだけ。
剣闘士を戦わせて楽しんでいたときから、人間の個々の脳は進化していない。 人間はそれをわかっていない。技術を正しく使いこなせると自分たちを過信してはいけない。
本質を見ようとしない人間が多すぎやしないか。
過渡期であるこの時代に、引き裂かれないように
自分にがっかり。 自分を見捨てたい。 なのに自分を見捨ててはいけない。 一生、自分は自分のまま。 とても煩わしい。
1年前にはあまり印象に残らない存在だったが、1ヶ月前に荘子の考え方をみてみるとすごく刺さった。彼に強く同意した。 でも、いくら似たように無為自然を体現しようとしたとしても、清談は逃げだ、という感想を抱いた。竹林の七賢を尊敬する気にはなれない。政治から逃げるなという自分からの声。
人生って何?
なんとなく生まれてしまったものを自分でもよくわからないまま芸術と言って世に出すことも、散らかった怒りを整理しないまま政治への提言だと言って世に出すことも、よくないんだろうな。
私は許すよ 自分が完璧でないことを。 あなたが完璧でないことを。 私を傷つけた人も、許すよ。 たとえ私のことを彼らが許さなくても、私は私の両親を許すよ。 綺麗じゃない身体も、こんなはずじゃなかったなんて思ってしまうような道のりも、 人の醜さも、全部許すよ。 苦しい時期も、誰も助けてくれないという感情も許すよ。 許して、許して、許す。 愛することは許すことだと信じているから。 それが自分を救う道だと信じているから。
自分の強い部分と、他者の弱い部分を比べて上位に立ったつもりになることの愚かさたるや。
「誰か助けて」って思うのやめたの。 全て見透かして救ってくれる、完璧な人なんていないから。 しがみつく先を探すのをやめた。 紐のない風船みたいに丸く柔らかく自由に高く。
「退行願望」 精神的に自立しなければならない、つまり大人にならなければならない悲しみを、受け入れて、悲しみきって、そしたら私は、あなたも?前に進めるかも、ね。
※これはあくまで「私の」気づき。 何か自分に関して暗い話をしてみたとき、 「あなただけじゃない」と言われて 「おっと、私だけのものでもないこんなことで悩んだり、暗くなったり、落ち込んだりしてみっともなかったか。情けない。すみませんね。」 と思っていた。そして、どこか的外れな返事だなあともやもやして、心を閉じていた。 気づいた。恐らくそれは、私が自虐じみた発言や自分の暗い部分の話をするとき、 「私は、あなたに慰めてほしい」 という期待をしていたからだ。 俯いて涙し