Δ55 本当の願望と美しい私
先日の出張先にはたまたまカメラマンが同行していて、沢山の写真を撮ってくれました。そしてそれを見た時・・・
強い反発が起きたのでΔってみたところ、思いがけず今まで上手くいってなかった「本当の望みを掴み取る」ということにつながり、さらには子供の頃からずっと躓いてきた、乗り越え方が分からなかった壁の消滅が起こりました。
かなりウザくてしつこい文章ですが二つの大壁が崩壊したので、いつも通り端折らずに残しておきます。
Δとの会話は途中から一体化してしまい、私の独り言のようになっています
では
ねえ、ちょっとさっき写真で見たけど私めっちゃ劣化してんじゃん
どういうこと?
私の美しさが現れないのはなぜ?
一体どうしちゃったの?前よりうんと制限が無いのに、もっと美しくなっていいはずじゃないの?
どうして制限いっぱいだった時の方が綺麗に見えるの?
制限のない自由な私は美人じゃいられないの?
写真を撮った人がそうなのかもしれないけど、じゃあ俳優さんとかは誰が写真撮っても大抵一定の状態を保っているのはなぜ?
私も自分の容姿を安定させることはできるの?
あなたは拡大しようとしています
一度、自分の中の美しさの基準というものを捨ててみてはどうでしょう
それから再び、あなた好みの美しさを拾い上げるのです
今は変化の時なので、あなたは自由に選びたい放題と言えます
制限が外れた割には、美しさにおいての制限が以前とは全く変わりなく、強固に存在していることの現れが、写真で見たあなたの姿です
どういうこと?
あ、これが嫌だこういうのは美しくないって決めつけてることがそのまま見た目に現れたってこと?
二重顎はダメ、顎が長いのも変、シワがあるのは嫌、姿勢が悪いのも良くない、頭が大きいのはバランスが悪い、
こういう制限があるってこと?
じゃあ、それらを受け入れたらいいの?
・・・というわけで受け入れてみた。
やり方はこうです;
超絶写りの悪い写真を一つ一つ、拡大して、見ました。
他人を見るように客観的に!
そしてその中にあるバイブレーションに注目。
写真に写った女性から放たれるひょうきんさや優しさ、楽しさ、真摯さといった独特の個性のような部分のみに意識を向ける。
小さな頃、美人ではないけど優しかった近所のおばちゃんに対して安心感を感じてたように、怖そうな雰囲気のお医者さんの前で うわぁ となっていたように、何の判断もせずただ、そのバイブレーションを感じ取る。
そうすることで、さっきまで消去したいという衝動に駆られていた写真が、ただのどうでもいい写真になりました。
何しろ「本当の」私じゃないもんね。滅茶苦茶限られた真我様の一部が現れたものに過ぎないんだし、それに今見たらもうただのどうでも良い普通の人にしか見えない。
そして、「私にとっての美しさ」という設定をしてみました
それは、私をみている全ての人が、その人にとっての美しさの骨頂を私の中に見出してしまう というもの
そしてその現象は、私(今これ書いてる私です)が目に映った全ての人を通して自分にとっての美しさの骨頂をその人に見出した時に起こります
その人の心が癒され、感動してしまう波動=美しさ が二人の間で通い合う状態
それが「人が私を見る、認識する」ということの中身(定義でもいいけど)
この体は私ではない、私という一個人は存在しない
だって私、自我じゃないもん。真我様ですから、全部だもの。
はい、ここから同じことを繰り返します。そして話とびます。
この体を使って、瞬間ごとに相手と共有することのできる真我のバイブレーションが、お互いにお互いを認識し合うということ
そしてそれは、私が相手を目で見て、話して、感じて認識することの内容そのもの(定義という言葉では少し範囲が狭い感じ)
つまり、真我同士お互いにお互いを感じる ということが私たちがコミュニケーションをするということ
とうとう私の学びが終わった!
コミュニケーション!!
(私が長年心の奥底で、生きてる間にこれを学ばないと墓場に行った後も後悔するだろうと思っていたことです)
それは相手との物理的、心理的な共通点を見つけて共感し合うということではなく、自分と相手を通しての真我同士の認識!
世界中の人が、自分だ。
相手は自分の鏡だ。
というのはこういう事なんだと思います。
だって、真我が本当の私でその滅茶苦茶小さな末端のエネルギーが現象として肉体に現れているのが、一見バラバラに見える私たち
それを判断することなく、振動しているエネルギーとして捉えた時に自分の(真我の)一部を純粋に認識することができる
それがお互いに起こっているのが、人と人のコミュニケーションの正体なのではないでしょうか
だから、美しいなと感じる人を見たら自分(真我)の美しさの一部が目の前の人の体を通って現れていて、相手は同様に違う美しさが私の体を通って現れているのを感じてるんだと思います
同様に嫌なやつだと感じる人を見たら、自分の嫌な部分(そう認識しているのは思考で、本当はただのエネルギー)の一部が違う人の体というフィルターを通って現象化しているのを目の当たりにしている。(世界中の人が、自分)
そして相手も私の体から現れている嫌な感じを、まるで自分のものではないものとして認識し、お互いにそれを受け入れないという選択をする。(人は自分の鏡)
全てを受け入れるって、つまり真我である自分は自我じゃ思いもつかないくらいの様々な美しさや感じの悪さを表現できるパワーと可能性を持っている、という真理を
「おお、このような感じの悪さすらも表現できるワタクシって・・・!」
と純粋に反応してただ感動することなんではないでしょうか
あーもう、ようやくこのウザい左脳を納得させる説明が終わったわ。
これで多分、しち面倒くさい文章を書くことが減るか無くなるかするでしょう。
いやー、よかったよかった。
やっと終わったわ、まじ感動した
これから一人打ち上げでもしよう。
あー最高
ほな。