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5分で人物史 | 《第3話》エリザベス女王の曽祖母 - アレクサンドラ・オブ・デンマーク
ヴィクトリア女王が治める大英帝国時代のイギリスに、はるばるデンマークから嫁入りしたアレクサンドラ・オブ・デンマーク。
(1864年・結婚翌年のアレクサンドラ)
その絶大な美貌や明るい性格で人々を魅了しましたが、イギリス王室の中で水が合わなかったり、難しい子育てに苦労したりしていました。
今回は、全4話のうちの3話目。
彼女の結婚後〜夫が英国王になる前までのお話です。
◆プリンセスオブウェールズ時代(1863 - 1901)
王太子エドワードと結婚してから、ヴィクトリア女王が崩御するまでの38年間です。
㇄社交界の華
デンマークから来た若く美しいアレクサンドラは、瞬く間にイギリスで人気者となりました。
彼女はとんでもなく時間にルーズという欠点がありましたが、散々みんなを待たせても「あら、遅れちゃった?」と微笑みさえすれば皆怒る気を失くしたと言います。
またそのファッションでも大いに人気を博しました。
彼女のきつく締めたコルセットに後ろを膨らませたスカートを履いた姿はとても魅力的でした。
今でもウェディングドレスのスタイルを表すのに“プリンセスライン" という言葉がありますが、これは当時プリンセス・オブ・ウェールズであったアレクサンドラに因んでいるそうです。
↓こういうドレスですね
アレクサンドラは、姑であるヴィクトリア女王の意見を無視して王室御用達以外の店で服を作る事がありましたが、それでも人々は彼女のファッションをこぞって真似したがりました。
女性の服はそれまでの骨組みを入れて大きく膨らませたスカートから、徐々にスッキリしたデザインへと変わって行きました。
(↑1850年代の女性)
(1866年・24歳頃のアレクサンドラ)
㇄過酷な出産
アレクサンドラは、1864年1月8日(当時19歳)に、第一子であるアルバート・ビクターを出産。
合計3男3女を全員年子で出産しました。
第一子: 1864年1月8日 アルバートビクター(長男)
第二子: 1865年6月3日 ジョージ5世(次男)
第三子: 1867年2月20日 ルイーズ(長女)
第四子: 1868年7月6日 ビクトリア(次女)
第五子: 1869年11月26日 モード(三女)
第六子: 1871年4月6日 アレクサンダー(三男)
(→24時間後に死亡)
(第一子アルバート・ビクターとアレクサンドラ)
これらの子供達は全員早産でしたが、実はアレクサンドラが義母ヴィクトリア女王が出産に立ち会うことを嫌って嘘の予定日を伝えていたのではないかと言われています。
◇
3人目のルイーズを出産した際には、合併症により足が不自由になり、引きずって歩くようになりました。
しかし、先に述べた通り当時のアレクサンドラは社交界のファッションアイコン的存在。その足を引きずる歩き方さえ貴婦人の間で流行となり、杖代わりにパラソルを持てばパラソルが流行するといった有様でした。
(1870年・26歳頃のアレクサンドラ)
◇
6番目に産まれたアレクサンダーは、誕生後両親・女官・医師のみ立会いのもと牧師により洗礼を受け、24時間後に死亡しました。
アレクサンドラはこの事についてプライバシーの保護を訴えたにも関わらず、ヴィクトリア女王は裁判所に亡くなった王子の服喪期間を申し入れました。
そして心無いマスコミは、この出産について"惨めな流産(wretched abortion)"、王子の葬儀を執り行った事について"不快で馬鹿げた儀式(sickening mummery)" と揶揄したのです。
葬儀は、通常ロイヤルファミリーが埋葬されるウィンザーではなく、誕生したサンドリンガムの教会の墓地でひっそり行われたにも関わらずでした。
㇄自己流の育児と教育
アレクサンドラは、育児に関して2つの事を大切にしていました。
1つめは、喧嘩を許さない事。
2つめは、生まれ持った富や特権階級によって傲慢にならないようにする事。
王室のしきたりとして「子供の教育は侍従達に任せるべき」と考えていたヴィクトリア女王も、この2点に関してはアレクサンドラのやり方を称賛していました。
しかし…
5人の子供は、それぞれに困った点がありました。
将来イギリス国王になる筈の長男・アルバートビクターは非常に勉強が苦手で、家庭教師に「頭の中が著しく休眠しているようだ」と言われていました。
(1875年・11歳頃のアルバートビクター)
次男ジョージは非常に癇癪持ちできかんぼうな子供でした。
(1870年・5歳頃の次男ジョージ)
男子たちは、まとめてヴィクトリア女王にこう評されています。
あの子達は育ちが悪く、躾もされていない。
私はあの子達を全く好きになれそうにない。
- Historical Boy’s Costume
また、3人の女子達についてはヴィクトリア女王の叔母つきの女官に「暴れん坊の少女達」と言われたそうです。
(左からヴィクトリア、モード、ルイーズ)
◇
とは言え、アレクサンドラは子供達を非常に可愛がりました。
と言うか、いくつになっても子供扱いしており、海軍で指揮をとる次男ジョージへの手紙に「あなたの可愛い小さな顔に大きなキスを」と書いたり、長女ルイーズの19歳のお祝いに子供のような誕生日パーティーを開いたりしたそうです。
ちなみにジョージが海軍を退役した翌年の顔はこんな感じ↓
(1893年のジョージ)
またそれぞれの子供達の結婚相手候補も、自分が気に入らなければヴィクトリア女王と意見が対立する事になっても反対しました。
《長男アルバート・ビクター》
ヘッセン大公女アレクサンドラとの結婚に反対される
《次男ジョージ》
ザクセン=コーブルク=ゴータ公女マリーとの恋愛結婚に反対される
《次女ヴィクトリア・アレクサンドラ》
生涯独身であったが、これは母アレクサンドラが健康上の問題を気遣って結婚を思いとどまらせたからだと言われている
そんな調子だったので、1892年に長男アルバートビクター(28歳)をインフルエンザで亡くした時は深く悲しみ、彼の部屋や持ち物をいつまでもそのままにしていたそうです。
㇄宮殿は動物園⁉︎
このように子供に対して非常に愛情深いアレクサンドラでしたが、実は大の動物好きでもありました。
(1872年、27歳頃のアレクサンドラ)
住まいのあるサンドリンガム宮殿で羊や七面鳥、タイハクオウムなどを飼っていたそうですが、特に犬が大好きで、大型犬から室内犬まで50匹以上を飼育しており、自分の手から餌を与えたりしていました。
アレクサンドラは潔癖症で手にキスをされるのを嫌ったという事ですから、犬に手から餌を食べさせるというのはよほど可愛がっていた事の表れと言えるでしょう。
(↓1896年、51歳ごろ)
(by Thomas Fall, published by Rotary Photographic Co Ltd. © National Portrait Gallery, London NPG x196863)
㇄親戚付き合いの苦悩
このようにアレクサンドラが子供や動物の世話に没頭したのは、宮廷内での孤立があったからだと言われています。
生まれつきの美貌や気取らない性格で国民からの人気は高かった彼女ですが、イギリス王室の文化や姑ヴィクトリア女王達と相容れないこともありました。
・夫エドワードが2ケタとも3ケタとも言われる数の愛人と浮気三昧。
(そしてそんな夫と愛人をブタ呼ばわり)
・夫方の親戚がいるドイツに顔を出さず、ヴィクトリア女王に渋い顔をされる。
(しかも自分の故郷デンマークには毎年子連れで帰国)
・夫の弟嫁と、式典の上座で揉める
(義弟嫁は生まれがロシア皇帝の娘なので、現王太子妃のアレクサンドラより自分の方が立場が上だと譲らなかった)
また生まれつきの難聴が歳を重ねるごとに深刻化し、その事も孤立化に拍車をかけたようです。
◇
…如何だったでしょうか。
見る人の立場によって意見が分かれそうですが、外国の王室に入って思うようにならない事もありつつ、自らのアイデンティティは失わなかった様子が見てとれるのではないでしょうか。
次回は、ついに長きにわたったヴィクトリア女王の治世が終わり、夫がエドワード7世として即位。クイーン・コンソート(王の配偶者)となった時代から亡くなるまでのお話です。
ここまで書かなかった慈善事業に力を入れていた姿や、彼女の名前がついた花を紹介します。(バラではありません)
↓
次回、最終話。