5分で人物史 | 《前編》ドイツ最後の皇太子妃 - ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン
1886年9月20日、ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルクは、かつて北ドイツに存在したメクレンブルク=シュヴェリーン大公国の元首である父と、ロマノフ王朝出身の母との間に生まれました。
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
↓赤色で示されたエリアです↓
(author: Milenioscuro, CC BY-SA 3.0 Wikipedia commons)
ちなみに "ツェツィーリエ" は英語のCecilie(セシリー)のドイツ語読みです。
ちょっと読みづらいかもしれませんが、ドイツっぽい雰囲気を出す為、ツェツィーリエ呼びで話を進めたいと思います。
◆子供時代
(左から・ツェツィーリエ、姉アレクサンドリーネ、兄フリードリヒ、母アナスタシア)
上に姉・兄を持つ第三子として生まれました。
父が喘息もちでメクレンブルクの寒い気候が合わなかった為、夏はメクレンブルクで、それ以外は南フランスのカンヌで過ごしていました。
(カンヌ by Simon, CC BY 2.0
Wikimedia commons)
1897年、ツェツィーリエが10歳の時に父が他界。翌1898年には、姉がデンマーク王室へ嫁ぎました。
以後、ツェツィーリエは自身が結婚するまでの6年間、夏の旅行としてロシアにいる母方の親戚を訪ねていました。
◆婚約
1904年6月。
亡き父の後を継いでメクレンブルク=シュヴェリーン大公となっていた兄の結婚式で、将来の夫に出会います。
それがドイツ皇帝に代わって結婚式に参列していたドイツ皇太子・ヴィルヘルムでした。
(1901年ごろのヴィルヘルム・by Jean Baptiste Feilner, Public domain, Wikipedia )
ヴィルヘルムは182cm程もある17歳のスレンダー美人ツェツィーリエに夢中になり、3ヶ月後の1904年9月に2人は婚約しました。
(2人が婚約したゲルベンサンデ狩猟小屋
by Richard Schlöder, CC BY 3.0
Wikimedia Commons )
◆結婚式
(1905年のヴィルヘルムとツェツィーリエ)
婚約から1年弱。
1905年6月6日、2人はベルリンで結婚式を挙げました。
式は王室礼拝堂とベルリン大聖堂で行われましたが、この時ツェツィーリエの希望で演奏されたのが、ワーグナーの「結婚行進曲」だったそうです。
ツェツィーリエは音楽に造詣が深く、後年自邸に音楽家を招いて私的な音楽会を開くこともありました。(詳細は後述)
↓結婚行進曲、この曲ですね↓
◆ドイツ皇女時代(1905〜1918年)
元々人見知りせず飾らない性格のツェツィーリエは、すぐにドイツで人気者になりました。
また彼女はファッションにも敏感で、特に帽子のコレクションに熱中。
あっという間にドイツの多くの若い女性達の見本となってゆくのでした。
そしてツェツィーリエは外見の華やかさだけでなく、聡明さも持ち合わせていました。
女子教育の発展に関心を寄せ、多くの学校が彼女の名前を冠して設立されました。
(ベルリンのCecilienschule。by Bodo Kubrak, CC0 Wikimedia Commons)
㇄子供達
(第一子長男とツェツィーリエ)
ツェツィーリエは、夫との間に男女6人の子供をもうけました。
長女アレクサンドリーネはダウン症でしたが、これまで王室に生まれた障がい児と異なり、公式の行事などにも参加。
特別支援学校で教育を受けました。
㇄夫婦関係
一方、夫は新婚当初から浮気三昧。
しかもそれを隠そうともしませんでした。
(結婚翌年の1906年10月のツェツィーリエと夫ヴィルヘルム)
そして1909年〜1912年・ツェツィーリエ22歳〜25歳頃(諸説あり定かではありません)、自身も夫の側近と関係を持ちます。
しかし浮気相手は宮廷内の別の女性とも関係を持っていた事が発覚。
ツェツィーリエは夫に彼との関係を告白します。
結局お相手は
「私が皇帝の息子で無ければ、お前を粉々にしてやるのだがな」
と言われて側近をクビになったそうです。
(どの口が、と突っ込みたくなりますが)
㇄ツェツィーリエンホフ宮殿の建設
第一次世界大戦直前の1914年、ツェツィーリエと夫が結婚以来住んでいた宮殿が時代に合わないとして、新しい宮殿の建設が開始されました。
(当時夫婦の夏の離宮であった大理石宮殿。by Clemensfranz, CCBY-SA 3.0, Wikimedia Commons)
本来なら1915年10月の完成を見込んでいたのですが、第一次世界大戦により建設が中断。
結局完成したのは1917年8月の事でした。
宮殿は、ツェツィーリエの名前に因んで「ツェツィーリエンホフ宮殿」と名付けられます。
(ホフhof = 庭、宮殿)
(中庭から見たツェツィーリエンホフ宮殿。
by Jean-Pierre Dalbéra, CC BY 2.0,
Wikimedia Commons)
夫ヴィルヘルム皇太子はイギリス・チューダー様式の家に感銘を受けており、このツェツィーリエンホフ宮殿の設計にもチューダー様式建築の専門家が携わることになりました。
またツェツィーリエ自身は子供の頃夏を過ごしたゲルベンサンデにある狩猟小屋風の建物を希望しました。
そんな訳で出来た建物は、「宮殿」という言葉からイメージされる煌びやかさはありませんが、レンガや木を沢山使った、温かみのある落ち着いた佇まいの邸宅となりました。
㇄第一次世界大戦
(1914年 ベルリン・Attribution: Bundesarchiv, Bild 183-R25206 / CC-BY-SA 3.0, Wikimedia commons)
宮殿の完成から少し時を戻します。
1914年、宮殿の建築が始まって間もない頃。
ツェツィーリエ27歳の時、第一次世界大戦が起こりました。
この時彼女は妊娠しており、1915年4月に長女アレクサンドリーネが誕生しました。
先述の通り、アレクサンドリーネはダウン症でしたが当時その事実は公表されなかったようです
◇
戦時中、ツェツィーリエの公務はドイツ皇太子妃として負傷兵を定期的に訪問するというものが大半でした。
しかしドイツ軍は度々敗北を喫し、戦局は悪くなる一方。
帝国主義を推し進めて戦争の要因を作った皇帝(ツェツィーリエ舅)に反発する勢力が大きくなります。
(1918年11月9日 ベルリン・ブランデンブルク門にて Attribution: Bundesarchiv, Bild 183-B0527-0001-810 / Unknown author / CC-BY-SA 3.0 Wikimedia commons)
そして1918年11月のドイツ革命でドイツ共和国宣言がなされ、帝政は崩壊。
自身の身が危うくなった皇帝・皇后および皇太子である夫はオランダに亡命しました。
しかしツェツィーリエは子供達と共にドイツに残ることを希望します。32歳の時の事でした。
次回はツェツィーリエの人生・後編。
皇太子妃の地位を失い、2つの世界大戦に巻き込まれても逞しく生きた姿を見ていきます。
↓↓↓
参考
Wikipedia: 日本語、 英語 、ドイツ語
Stiftung Preussische Schlösser und Garten Berlin - Brandenburg