5分で人物史 | 《最終話》ロマノフ朝ラストエンペラーの母 - マリヤ・フョードロヴナ
全7話の最終回です。
最後だけ長くなってしまいました。
嫁入りして来たロシアで、夫である皇帝に先立たれたデンマーク出身のマリヤ・フョードロヴナ。
(1899年、52歳頃のマリヤ)
◆これまでの話
夫亡き後は、26歳の長男ニコライがニコライ2世として皇帝に即位します。
しかしながら、ニコライはマリヤに蝶よ花よと育てられたお坊ちゃん気質で、皇帝にしては指導力不足。
そこでマリヤは皇太后として息子に政治的アドバイスを行い、ロマノフ朝ロシアを陰で支えました。
しかし、ロシア史上最も悪名高き(?)あのラスプーチンの出現により、マリヤと息子夫婦との間に溝が出来始めます。
◇
ラスプーチンは、不思議な力で息子夫婦の末っ子・アレクセイの血友病の症状を止めたとされています。
この事で特に嫁アレクサンドラはすっかりラスプーチンを信用し、国政に口を出させるようになります。
しかし、マリヤもロシア宮廷もそのような訳のわからぬ力を持つ男に懐疑的。
マリヤは度々長男夫婦からラスプーチンを遠ざけようとしますが、彼にすっかり依存している嫁アレクサンドラは聞く耳持たず。
気の弱いニコライ2世は母と嫁の板挟みで何も言えません。
この頃から、マリヤはロシア国外へ行く事が多くなりました。
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◆第一次世界大戦
1906年、父であるデンマーク国王・クリスチャン9世が崩御。
マリアは姉と共同でコペンハーゲンの北部に別荘を買い、以来夏は毎年そこで過ごしていました。
(1910年、コペンハーゲンの別荘で過ごす
マリヤと姉)
◇
1914年7月に第一次世界大戦が起きた時は、ロンドンに滞在していました。
開戦の知らせを聞きつけたマリアは、急ぎロシアに帰国し、ロシア赤十字社の総裁をつとめます。
(ロシア赤十字社のマーク。
by Joanna Kośmider CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons )
この頃、ロシアは相変わらずラスプーチンとタッグを組んだ皇后アレクサンドラに支配されていました。
アレクサンドラは元々ロシア宮廷に馴染もうとせず人気が無かったので、国民の間には皇帝・皇后を排除しようという動きが高まっていました。
(加えて、戦争で元々苦しかった国民の生活状況が更に困窮していった、などの不満もありました)
◇
1916年、マリヤはラスプーチンを追放せよと息子夫婦に最後通告を行います。
しかし逆にマリヤ自身がキーウへと移るよう言い渡されるのでした。
◆ロシア革命
その後マリヤはキーウで福祉活動に精を出します。
キーウではマリヤがロシアに来て50周年の式典が盛大に行われ、息子ニコライ2世が嫁無しでお祝いにやって来ました。
そして同年12月30日、ラスプーチンが暗殺されます。
しかしそんな事で皇帝夫妻への不満が収まるわけは無く。
◇
翌1917年、2月革命が起こります。
この革命で長男ニコライ2世は退位。
69歳になっていたマリヤは、革命の飛び火を避けてクリミアに逃れます。
そこでニコライ一家処刑のニュースを耳にするのでした。
◇
マリヤはこのニュースを信じようとせず、息子一家はきっと国外に逃れたに違いないと主張していたそう。
しかし、マリヤと行動を共にしていた娘オリガによると、心の底ではニコライ達の死を受け止めていたと言われています。
◆革命を逃れて
のちにマリヤは、イギリスに嫁入りしていた姉のもとに逃れます。
しかしマリヤはイギリス国民から慕われる姉の姿を妬ましく思い、やがて故郷のデンマークに帰ります。
そして、以前姉と購入した夏の別荘に住むのでした。
余生は、ロシアから持ち出した宝石を売ってお金にしながら暮らしていたそうです。
◆故郷へ、そして晩年
デンマークの首都コペンハーゲンには、マリヤを慕ってロシアの亡命貴族たちが集まります。
彼らはマリアを代表にしてロシア帝国の復活をと働きかけますが、マリアは「誰も息子(元皇帝ニコライ2世)が死んだところを見ていない」からと、この申し出を拒否します。
1928年、マリヤはデンマークで死去。
80歳でした。
遺体は同国内のロスキレ大聖堂に安置されました。
◇
ここで突然ですが2005年まで早送りします。
この年、デンマークのマルグレーテ女王とロシアのプーチン大統領の間で協定が結ばれます。
それは、マリヤの遺体を 故人の意思に従ってロシア国内に眠る夫の棺の隣に移す、というものでした。
翌2006年、ロシアで改葬の儀式が行われました。
デンマーク王太子フレゼリク夫妻も参加した大掛かりなものだったのですが、何とこの時 群衆の数が多すぎて、デンマーク外交官が墓穴に転落するという事故が起こったそうです。
死後80年ほど経っていたのに、ロシア国民の関心度の高さがうかがえますね。
◇
指導力がある夫が皇帝の時代は 政治に口出しする事なく家庭を守り、社交界をリードしていたマリヤ・フョードロヴナ。
世界大戦や革命が無い時代だったら、良妻賢母として幸せな生涯を送ったであろうか…と想像してしまいます。
その一方、末娘や長男嫁のほか、義弟嫁とも仲が悪かったという話もあります。
亡命先のイギリスでは、国民から人気のある姉に嫉妬していた、というエピソードもありましたね。
女の敵はやはり女⁉︎と考えながらその生涯を辿ると、新たな発見があるかもしれません。
おまけ
マリヤの画像を色々貼ります。
Grand Ladies さんよりお借りしてます。
(マリヤときょうだい達)
(年代不明)
(クリノリン―スカートを膨らます骨組み―
を入れているマリヤ)
(夫アレクサンドルと)
(年代不明)
(1866年、19歳頃)
(1866年)
(姉アレクサンドラ、妹テューラと)
(1870年代半ば、30歳前後)
(年代不明)
(姉アレクサンドラ、夫アレクサンドル3世と。
皇帝の夫が後ろで小さくなってるのが何か好き。)
(長女クセニアと)
(きょうだい写真。左から:
次女マリヤ- 元ロシア皇太后、
次男ゲオルギオス1世 - ギリシャ国王、
長女アレクサンドラ - イギリス王妃、
長男フレゼリク8世 - デンマーク国王)
参考
残酷な王と悲しみの王妃 2 (集英社文庫)
Wikipedia 日本語